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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 5月 法話
法話1
今月は、「白骨の御文章(白骨の章)」 について話をさせていただきます。

 宗祖・親鸞聖人のみ教え(浄土真宗)を全国に広められた第八代宗主・蓮如上人は、「浄土真宗中興の祖」と仰がれています。

 蓮如上人は、全国各地の御門徒方へ南無阿弥陀仏のみ教えを伝える為、お手紙にて布教伝道されました。そのお手紙は、聞く者が浄土真宗のみ教えを理解できるように分かり易い言葉をもって書かれ、『御文章』または『御文(おふみ)』ともいわれます。

 現在、日常いただいている五帖八十通の『御文章』は、第九代宗主・実如上人のもとで、二百数十通あった蓮如上人のお手紙の中から特に肝要(かんよう)なものを選びまとめられたものです。



 『御文章』は現在、ご法事や葬儀の際に拝読され、その中でも広く知られているものが「白骨の章」(五帖目十六通)ではないでしょうか。
 「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり」は有名な一文です。

 この「白骨の章」には、仏教は後生の一大事を知り、その解決をすることとあります。それはそのまま、人生の目的は後生の一大事を知り、解決することであるといえます。
 「後生の一大事」という言葉には、「私が死んだらどうなるのか?」という大問題は、いまここで解決されなければならないというおこころが込められています。



 誰もが今日自分が死んでしまうとは思っていません。かなうならば永久に生き続けたいと思っているのが本心でしょう。しかし、私が先か・人が先か、今日か・明日か分かりませんが、いずれは死んでいかねばなりません。

 その人生のはかない有様を「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり」と述べられています。
 朝は元気にしていても夕方には白骨となっているかもしれない。今どれだけ元気だと思っていても、次の瞬間に私の命がどうなるかは全く分かりません。老いも若きも順番などありません。無常の前では、誰でもみな同い年なのです。
 
 だからこそ、「たれの人もはやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」とおすすめくださいます。
 すべての人の行き先が後生です。吸った息が吐けなければ、そこから後生なのです。生と死は隣り合わせです。死んで悔やんでもどうにもなりません。
 はかない人生だから死んだ後で良いところに行こうというのではありません。何があっても決して捨てることはないと喚びかけてくださるのが阿弥陀様です。その阿弥陀様におまかせして念仏申し、お浄土に往き・仏として生まれさせていただく人生は、人生の長短や死の善し悪しに縛られることなく、一人ひとりがそれぞれのご縁のなかで精一杯生き抜くことのできる力強い人生であるとお教えくださってます。



 「白骨の章」は、大切な方との悲しい別れの場で聴くことが多いと思います。
 その悲しみの縁だからこそ、大切な方の姿をとおし、我が身のはかなき無常の姿に気づかされ、その私を「ほってはおかん。」と立ち上がり「南無阿弥陀仏」とおはたらきかけ、よびかけ、いだきとってくださる阿弥陀様。その阿弥陀様のおはたらきにより、お浄土に往き・仏として生まれさせていただく人生をお念仏申し、日々大切に歩ませていただきたいものです。




法話2
親鸞聖人は、1173年5月21日(旧暦 承安3年4月1日)、京都の日野の里にお生まれになりました。西本願寺では1874年(明治7年)より、この日を「降誕会(ごうたんえ」」と名づけ、親鸞聖人のご誕生をお祝いいたします。
 今年は、ちょうど親鸞聖人がお生まれになり850年という節目の年になります。また、来年は親鸞聖人が、『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を著され、浄土真宗のみ教えを開かれた「立教開宗」から800年をお迎えする年となります。
本願寺では、2023(令和5)年3月から5月に、5期30日間にわたり、その慶讃法要がお勤めされています。
 ご縁があれば、ぜひ参拝したいものです。

さて、「親鸞」と読むことができる方は多いと思いますが、「親鸞」と書ける人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
「鸞」という文字は日常では見かけることがあまりないようです。
「鸞」の文字の下半分は「鳥」という字がついています。このことでお分かりと思いますが、実は「鸞」とは鳥の名前なのです。
ただしこの鳥は、地上にいる鳥ではありません。 「鸞」は「鳳凰」と同じように中国に古くから伝わる伝説の鳥です。
姿は鳳凰に似ていて、体は五色に輝き、声は五音を奏でると言われていいます。
この「鸞」という鳥について次のような話を聞いたことがあります。
美しい姿の親と異なり、生まれたばかりの雛は真っ黒く醜い容姿をしているそうです。そのあまりにもの容姿の違いの為、親鳥が餌を持ってきて雛に与えようとしても、雛は自分とはあまりにも異なる姿を見て親と気づくことができすに餌を食べないのだそうです。
そのとき、親鳥はどうするのでしょうか?
雛に餌を食べさせたい一心で、泥水に飛び込み、自らの体を汚して雛と同じような汚れた姿に変えるのだそうです。すると雛は自分の親の姿を見て、安心して餌を食べるそうです。
親鸞という名は、親を親と気が付くことができないこの私に、阿弥陀さまの方が南無阿弥陀仏と声の仏様に姿を変えてここまできていてくださる。
そのお心を「親鸞」と自らの名にして喜ばれてのではないかとも思います。
考えてみれば、この私が今日まで「いのち」のご縁を歩ませていただいたということは、とても大変なことでありました。おかげさま。おかげさまと今日の「いのち」をいただきたいものです。

光源寺では本年11月12日に慶讃法要を予定しております。ぜひご一緒にご縁にあいましょう。
浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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