法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和6年 8月 法話
法話1
この度は、8月ということでお盆の話をさせていただきます。
お盆と言えば、ご先祖が帰ってくると言われますが、仏教の考え方ではありません。
亡き方々は「ほってはおかない」と立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様にいだかれ、お浄土へ仏様として生まれられ、阿弥陀様と同じように立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ、いつでも・どこでも私たちのところに来て下さっておられます。
お盆なので帰ってくる・お盆過ぎたので戻られるのでなく、常に来て下さっている事に改めて気付かせていただくご縁にしていただきたいものです。
お盆の行事は、『盂蘭盆経』というお経に基づいています。
このお経の話には、お釈迦様のお弟子・目連尊者が登場します。
●目連さまは、育ててくれた母のご恩に報いようと亡くなった母が次にどの世界に生まれられたかを神通力によって捜されると、その母は餓鬼道の世界に堕ちておられました。ガリガリに痩せ骨と皮になっている母を見るに忍びず、目連さまは何度も鉢に載せたご飯を差し上げられますが、母が食べようとすると、あっという間に火がつき燃え尽き灰になってしまいます。
痛ましい母の姿を見た目連さまは、号泣しながらお釈迦さまのもとに行かれ、どうすれば母を救うことができるかを尋ねられます。
お釈迦さまは「目連よ。そなたの母の罪は重かったようだ。そなた一人の力では母を救うことはできない」と仰せになり、「雨期の三ヶ月間、一定の場所にこもり修行する・安居が終わる7月15日に、多くの僧侶たちに供物を施すならば、仏・法・僧の三宝の功徳によって、そなたの母は救われるであろう」と述べられるのです。
この話に基づいて、お盆の行事が行われることになったのです。
ですから、今でも7月15日にお盆の行事が行われる地方もあります。この7月15日は旧暦で、新暦になおすと秋になりますが、秋は農作業が忙しいので、前倒しをして8月15日頃に
行うようになったといわれています。
また、『盂蘭盆経』の「盂蘭盆」の意味について、従来は「逆さづりの苦しみ」を意味するといわれいましたが、最近ではその説に否定的な見解が出され、「ご飯をいれた鉢」とか「竹や木で作られた食物を供える棚」の意味ではないかといわれます。そうならば、現在のお盆の風習に繋がるといえるでしょう。
ただし、現在行われているお盆の行事と『盂蘭盆経』のお話には、大きな違いがあります。
日本では「施餓鬼」といい、餓鬼道に堕ちているものに施しをすることから、墓前や仏前に野菜などお供えたりする風習もあります。
でも『盂蘭盆経』のお話にあるよう、餓鬼道に堕ちているものに食べ物を施しても、火がつき灰になってしまい救われることはありません。目連さまの母は、仏・法・僧の三宝の功徳の力によって、救われたのです。
私たちが仏さま・仏さまの覚りに思いを致し、仏さまの教えである仏法を聞き、仏さまの教えを実践している人々を敬うことが大切であるとお経に説かれているのです。
お盆に際して、亡き方々を偲び、家族そろって墓前にお参りされることは、ありがたい光景です。ただ、それだけにとどまらず、お寺にお参りして「ほってはおかない」と立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様のみ教えに触れ、亡き方々はお浄土へ仏様として生まれられ、阿弥陀様と同じように立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ、いつでも・どこでも私たちのところに来て下さっておられる事に気付かせていただき、私たちもお浄土へ仏様として生まれる身であることを喜ばせていただき、それぞれが仏前で自分の有り様を振り返るご縁にしていただきたいものです。
法話2
2024年8月 オンライン法話
8月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
今年で戦後79年目を迎えます。
8月6日と9日は、広島市と長崎市に原爆が投下された「原爆の日」にあたり、それぞれ平和祈念式典が行われます。そして、8月15日は「終戦祈念日」「終戦の日」であり、戦没者を追悼するために、日本武道館で「全国戦没者追悼式」が行われます。
戦争や原爆によって多くの尊い命が失われました。恐ろしい戦争を振り返り、二度とこのような事を繰り返さないように、戦争の悲惨さ、そして、平和のありがたさや命の尊さを改めて考える機会です。
もう、20年以上前の事になりますが、自衛隊のイラク派兵反対の署名活動のお手伝いをするご縁がありました。派兵がイラク戦争に間接的に加担し、憲法第9条に違反するとした署名活動でした。中央橋で道行く方々に署名のお声掛けをしたのですが、活動の最中に、ご年配の男性から、
「今頃、そんな活動をやって意味があるのか。」
このような厳しい言葉を投げかけられました。
被爆地の長崎で生まれ育って、戦争や原爆の悲惨さや平和の大切さを学校の平和教育で学びましたが、戦時中に比べると何不自由のない生活を送ってきました。そのような私がお手伝いをする様子は、もしかしたら、署名活動自体を形式的なものに過ぎないと思われたのかも知れません。突然の厳しい言葉に啞然としてしまった事を思い出します。
そのご年配の男性は実際に戦争を経験された方だったと思います。戦争の真の残酷さを知っておられたからこそ、このような厳しい言葉を放たれたのかも知れません。
思い返してみると、生半可な気持ちでそのような活動に参加することは相応しくなかったような気がします。
世界で起きている現実に目を向けると、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻は2年半を過ぎようとしていますが、終戦に向けた動きは見えてきません。
ウクライナの方々は、家族と国を守るために銃を持って攻撃に備えており、軍事訓練も受けているという報道を目にしたことがありました。
もし、私自身がウクライナの方々と同じような状況にあったとしたならば、同じように銃を手にするでしょう。敵から銃口を向けられた瞬間、家族や国の事を考える余裕があるのかも分かりません。死にたくない、痛い思いをしたくない、そのような思いが先に立ち、敵より先に銃の引き金を引いて敵を殺めてしまうかも知れません。きれいごとでは済まないと思います。
太平洋戦争末期の沖縄戦では、多くの民間人が、敵の手によってではなく、窮地に追い込まれた日本軍によって拷問や虐殺され、死を強要したという記録もあります。
私たち人間は、置かれた状況によっては冷静な判断ができない、正気を失い、人も殺めてしまう恐ろしい生き物です。
『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子さんである唯円房の著作とされており、唯円房が親鸞聖人から直接聞いた言葉が記されております。その中には
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである、そのようにお示しくださっています。
「浄土真宗のみ教え」を拠り所としている私達は、この親鸞聖人のお言葉に示されているように、縁というものによっては私達自身も危うい可能性を秘めており、それが人間の本当の姿であると認識することが必要だと思います。
自分の立場に合わせてしか物事を考えることしかできないのが私達であります。だからと言って、自分の立場だけ考えればいいと言っているのではありません。
自分の都合によっては、何を起こすか分からないのが人間の本当の姿であると自覚することで、他人に対する思いやりのある行動へと繋がるのではないでしょうか。
人間の本当の姿を自覚するその先に、過去の過ちを繰り返す事がないよう、恐ろしい戦争の悲惨さを振り返る、それが、平和を願う事へと結びついていくのではないかと思います。