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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和6年 11月 法話
法話1

2024年11月 オンライン法話 

11月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
最近「親ガチャ」という言葉が若者の間で使われているようです。
この「親ガチャ」という言葉は、インターネット上で生まれた俗語で、カプセルに入ったおもちゃの自動販売機の「ガチャガチャ」からきているそうです。「ガチャガチャ」は、コインを入れてハンドルを回すと、カプセルに入ったおもちゃが出てきます。おもちゃに「当たり」もあれば「ハズレ」もあるわけです。つまり「親ガチャ」とは、子供にとって親を選ぶ事はできないという意味のようです。
生まれた家庭によって様々な違いがありますが、「親ガチャ」で言う「ハズレ」の家庭に生まれると、経済的に恵まれない環境によって学びの機会が妨げられたりする場合や、生まれ持った能力の差により頑張っても限界があり、その後の人生に大きく影響してしまう、頑張っても報われない社会に対する不平等感が表れています。
皮肉っぽく感じるこの「親ガチャ」という言葉は、なんだか、自分の人生の行く末を親のせいにしているようで、あまり好感が持てない言葉と感じました。
しかし、私が育った時代と現在とは社会の環境は大きく変化しました。様々な社会的な格差も広がっています。もし、私自身が、これから社会に出ようとしている若者であったとしたならば、状況によっては、将来に希望を持つことができず、社会に不平等感を抱き、この「親ガチャ」という言葉を面白おかしく使っていたかも知れません。

先日、ご門徒さんとの会話のなかでも「人生は不平等だ」というお話になりましたが、改めて周りを見渡しても、そのように感じます。そもそも、人は生まれた時から不平等です。
精一杯生きていても若くして命を終えていく人もいれば、不摂生な生活を送っていても長生きする人もいます。
少しの勉強だけでテストで結果を残せるような能力を持つ人もいれば、どんなに勉強しても理解するのに時間が掛かってしまう人もいます。
仕事を一生懸命頑張って出世する人もいれば、頑張っても評価されない人もいます。
事業が成功してお金持ちになる人もいれば、些細なきっかけから事業を続けていくことが困難になる人もいます。
したたかに生きる人もいれば、不器用な生き方しかできない人もいます。
世界に目を向けても、生まれた国によって経済や教育などの貧富の差が生じています。
世の中は不平等だらけで、うんざりしてしまいます。
勿論、努力を重ねることで結果を出せる人もいますし、人や国の不平等を無くすために、様々な取り組みも行われており、それぞれ大切な事だと思います。

しかし、私達は他人と比較することで自分の存在を確かめ、うらやましがったり、ねたんだりしてしまいます。そして、自己中心的な物事の見方しかできず、目の前の現実を受け入れることができずに苦しんでいる、それが煩悩だらけの凡夫である私達の姿なのです。
また、お釈迦様は、全ての物事は「因」と「縁」によって成り立っているとお示し下さっています。この「因」と「縁」が、全く同じ物事によって起こったのであれば、それは平等と言えるでしょうが、現実的にはかなり考えにくいと思われます。
そもそも、私達の住む世界に平等というものはあり得ないのです。不平等で理不尽と解っていながらも自分を守らないといけない場合もあります。
自分にとって都合の良い縁もあれば都合の悪い縁もあって、どちらに転ぶのか分からない、私達はそのような日々を送っているのです。

親鸞聖人のお弟子さんである唯円房が、親鸞聖人が述べられたお言葉を書きとどめた『歎異抄』というお書物のなかには、このような言葉が記されています。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、念仏だけが真実なのである。

仏教を開かれたお釈迦様は、この世のものは、たえまなく変化し続けている諸行無常の世界であることを明らかにされ、親鸞聖人は、自己中心的なものの見方しかできない、煩悩だらけの私達の姿を「煩悩具足の凡夫」という表現をされました。
厳しいですが、私達が理想とする平等には限界があります。不平等な世の中を生きるために煩悩などを滅することができない私達を、阿弥陀様は平等にそのままに救いたいと「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、はたらき続けて下さっています。
阿弥陀様のお慈悲のおはたらきに気付かさせていただき、自らの毎日を振り返りながら、不平等を完全に無くすことは難しくても、自分にできることから始めてみることも大切ではないでしょうか。



法話2
仏典童話に「おくびょうなウサギ」というお話があります。

むかし、あるところにとてもおくびょうなウサギが一匹すんでいました。
ある日、海辺で昼寝をしながら、ふと、こんなことを考えました。
「もしも、世界がこわれたらどうしよう?」
 するとそのとき、すぐそばの地面で、「ドッシン」と、ものすごい音がしました。
「うわー 世界がこわれたぞ!」
 おくびょうなウサギははね起きて、いちもくさんに逃げ出しました。
「どうしたの。なにかあったの?」
 ほかのウサギたちが、追いかけてきて聞きました。
「世界がこわれたんだ! 大急ぎで安全な場所へ逃げるんだ!」
 おくびょうなウサギは、ふり向きもせずに走りながら答えました。
「たいへんだ、世界がこわれた!」
「たいへんだ、世界がこわれた!」
と、ウサギたちは、おくびょうなウサギのあとに続いてかけ出しました。
 
 それを見た、森の動物達が、
「どうしたんだ? どうしたんだ?」
と、いいながら、あとに続いてかけ出しました。
 ウサギの次にシカ・イノシシ・キツネ、サイにゾウまで逃げ出しました。

 その様子を一匹のライオンが山の上から見ていました。
 
「このまま走っていけば、皆海に落ちてしまう。なんとか助けなければ」
 ライオンはものすごい勢いで飛び出していって、大声でほえました。
「止まれ、止まれ、止まれ! いったい何事だ!」
「はい、世界がこわれたのです」
と、ゾウが止まっていいました。
「ではいったい、だれがそれを見たというのだ」
「サイです」
「イノシシです」
「シカです」
「ウサギです」
「先頭のウサギです」
と、順番に答えていって、ライオンは先頭のおくびょうなウサギに聞きました。
「おまえは、ほんとうにそれを見たのか?」
「はい、聞いたのです。たしかに、バリリリッ! と地面のわれる音がしました」
「見ていないのか? 聞いただけでは、あてにならない。どれ、わしが調べてきてやる。」
 大きなライオンは、おくびょうなウサギを背中に乗せて、海辺に着きました。
「あのあたりです」
「・・・やれやれ。よくごらん。どこの地面が割れているというのだね。おまえが聞いた音というのは、これが落ちた音だね」
と、ライオンはそばに落ちている、大きな木の実をころがしていいました。
「そうだったのか」
 ウサギは、はずかしくなりました。
「みんなもう怖がることはないよ」
ライオンが優しく笑いながら言いました。それを聞いた動物達は、安心してまた森へ帰っていきました。


このウサギと動物の姿。なんだかコロナ禍の時の私自身の姿を思い出してしまいます。いやよく考えれば、人の話に右往左往する姿は今の私の姿と全く同じかもしれません。私たちは物事の真理を諦らかに見る智慧の眼がありません。そんな私たちの前に「われにまかせよ」と如来さまが喚び続けてくださっています。
如来さまの喚び声を南無阿弥陀仏といただいてまいりましょう。


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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