法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和7年 3月 法話
光源寺住職法話
今月は「お彼岸」について話をさせていただきます。
一年のうち、昼と夜の長さが同じになる日が二回あります。春分の日と秋分の日です。
今年は3月20日が春分の日で、「お彼岸」の中日とよばれる日です。この日を中心に前後三日間含めた一週間を「お彼岸」と言います。
「お彼岸」になりますと全国各地では、お墓参りの光景が見られます。
「お彼岸」のお墓参りは、江戸時代になってから一般の人々に広がったそうですが、仏教修行の期間としては平安時代から約千年の長い伝統をもっています。
しかし、仏教の起こったインドや中国では行われておらず、日本の風土や気候が生み出した日本独自の仏教行事です。
「お墓」とは、さきにお浄土に往き、仏として生まれられた故人を偲び、常にはたらき・喚びかけてくださる阿弥陀様の願いを聞かせていただく場所です。
「お彼岸」をお墓参り・お墓掃除する期間と思っておられないでしょうか?
そもそも「彼岸」とは時期や季節を表す言葉ではなく、「極楽・浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む現実の世界・苦悩の世界を「此岸」と言い、この「此岸」から阿弥陀様のおいでになる真実の世界・極楽浄土を「彼岸」と言います。
「お彼岸」とか「彼岸会」という場合の「彼岸」とは、「到彼岸(彼方の岸に到る)」の略であり、苦悩の世界から真実の世界である極楽浄土へ到る道を尋ねていくことが「お彼岸」の本来の意味です。
『仏説阿弥陀経』というお経に、
「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。」
とあり、阿弥陀様という仏さまの極楽浄土・彼岸を西の方角で表すようになりました。
春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、真西に沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせて、「お彼岸」と呼ぶようになったようです。
この日を中心に前後三日間含めた一週間が「お彼岸」という仏教週間になります。
では、阿弥陀様という仏さまの極楽浄土とはどのような世界でしょう。
『仏説阿弥陀経』に、「ともに一処に会する(倶会一処)」と説かれています。
「倶」は「ともに」という意味で、先立たれた方々とこの私が「ともに」ということです。
「会」は「あう」ということ、「一処」は「ひとつのところ」すなわち「極楽浄土」ということです。先立たれた方々とこの私があうことができる世界が、極楽浄土ということです。
この世でのお別れが永遠のお別れではなく、先立たれた方々とこの私は間違いなく極楽浄土で会うことができると、『仏説阿弥陀経』に説かれたのが「倶会一処」という言葉です。
大切な方々との別れは辛く悲しいことです。しかし浄土真宗のみ教えをいただく私たちは、先立たれた方々と永遠のお別れをするのではありません。二度とお姿を見ることも声を聞くこともできないのでもありません。
この世では一旦のお別れをしますが、いずれ先立たれた方々とこの私は間違いなく「倶(とも)」に阿弥陀様という仏さまの極楽浄土「一処(いっしょ)」で必ず「会(あ)」うことができるのです。
「お彼岸」を単なるお墓参り・お墓掃除する期間にとどめるのではなく、過ごしやすい気候のこのときに、苦悩の世界で どうすることも出来ない私たちをほってはおけないと立ち上がり、真実の世界である極楽浄土へ到らしめ下さる阿弥陀様のおはたらきを聞かせていただき、先立たれた方々から「また極楽浄土で会いましょうね」という言葉を聞き、先立たれた方々を偲び、その方々が往かれた極楽浄土を想い、私たちも阿弥陀様のおはたらきによって極楽浄土にまいらせていただき、先立たれた方々と極楽浄土で必ず会う身であったとお念仏申し、よろこばせていただきたいものです。
一年のうち、昼と夜の長さが同じになる日が二回あります。春分の日と秋分の日です。
今年は3月20日が春分の日で、「お彼岸」の中日とよばれる日です。この日を中心に前後三日間含めた一週間を「お彼岸」と言います。
「お彼岸」になりますと全国各地では、お墓参りの光景が見られます。
「お彼岸」のお墓参りは、江戸時代になってから一般の人々に広がったそうですが、仏教修行の期間としては平安時代から約千年の長い伝統をもっています。
しかし、仏教の起こったインドや中国では行われておらず、日本の風土や気候が生み出した日本独自の仏教行事です。
「お墓」とは、さきにお浄土に往き、仏として生まれられた故人を偲び、常にはたらき・喚びかけてくださる阿弥陀様の願いを聞かせていただく場所です。
「お彼岸」をお墓参り・お墓掃除する期間と思っておられないでしょうか?
そもそも「彼岸」とは時期や季節を表す言葉ではなく、「極楽・浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む現実の世界・苦悩の世界を「此岸」と言い、この「此岸」から阿弥陀様のおいでになる真実の世界・極楽浄土を「彼岸」と言います。
「お彼岸」とか「彼岸会」という場合の「彼岸」とは、「到彼岸(彼方の岸に到る)」の略であり、苦悩の世界から真実の世界である極楽浄土へ到る道を尋ねていくことが「お彼岸」の本来の意味です。
『仏説阿弥陀経』というお経に、
「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。」
とあり、阿弥陀様という仏さまの極楽浄土・彼岸を西の方角で表すようになりました。
春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、真西に沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせて、「お彼岸」と呼ぶようになったようです。
この日を中心に前後三日間含めた一週間が「お彼岸」という仏教週間になります。
では、阿弥陀様という仏さまの極楽浄土とはどのような世界でしょう。
『仏説阿弥陀経』に、「ともに一処に会する(倶会一処)」と説かれています。
「倶」は「ともに」という意味で、先立たれた方々とこの私が「ともに」ということです。
「会」は「あう」ということ、「一処」は「ひとつのところ」すなわち「極楽浄土」ということです。先立たれた方々とこの私があうことができる世界が、極楽浄土ということです。
この世でのお別れが永遠のお別れではなく、先立たれた方々とこの私は間違いなく極楽浄土で会うことができると、『仏説阿弥陀経』に説かれたのが「倶会一処」という言葉です。
大切な方々との別れは辛く悲しいことです。しかし浄土真宗のみ教えをいただく私たちは、先立たれた方々と永遠のお別れをするのではありません。二度とお姿を見ることも声を聞くこともできないのでもありません。
この世では一旦のお別れをしますが、いずれ先立たれた方々とこの私は間違いなく「倶(とも)」に阿弥陀様という仏さまの極楽浄土「一処(いっしょ)」で必ず「会(あ)」うことができるのです。
「お彼岸」を単なるお墓参り・お墓掃除する期間にとどめるのではなく、過ごしやすい気候のこのときに、苦悩の世界で どうすることも出来ない私たちをほってはおけないと立ち上がり、真実の世界である極楽浄土へ到らしめ下さる阿弥陀様のおはたらきを聞かせていただき、先立たれた方々から「また極楽浄土で会いましょうね」という言葉を聞き、先立たれた方々を偲び、その方々が往かれた極楽浄土を想い、私たちも阿弥陀様のおはたらきによって極楽浄土にまいらせていただき、先立たれた方々と極楽浄土で必ず会う身であったとお念仏申し、よろこばせていただきたいものです。