法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和7年 5月 法話
<邪魔者と歩む道>
私が勤めるシアトル別院では、日系マナーという老人ホームで月に二回、第一、第三木曜日に法話会を開催しています。私も毎月一回は、お参りさせていただくようにしています。ある木曜日、その日は私の当番で、日系マナーにお参りさせていただきました。その日の午後は予定が入っていませんでしたので、お参りの後、ゆっくりできるなとのんびり構えていました。すると、日系マナーに行く直前に妻が、
「私、結ちゃん(息子)の迎えに行けそうにないから、お願いね。」
しかもその日は、妻がほかの子供も面倒を見る予定の日で、遅れていくわけにもいきません。のんびりできるなと思っていたのが、急転、一気に忙しくなってしまいました。息子が生まれる前は、自分の予定だけ考えていればよかったのですが、息子が生まれてからはしばしば息子の予定に合わせて自分の予定を変更しなければいけないことが出てきます。正直、面倒だな、と思うこともありますが、これも子育ての醍醐味の一つですね。
子どもの影響で、自分の今後の人生をどうするか大きく悩まれた方がおられます。それは、お釈迦様です。お釈迦様は、29歳で家を出て(出家)、悟りを求めてご修行されました。これは人生における一大イベントですから、一朝一夕に決心されたわけではないでしょう。長い年数をかけて出家するかどうかを考えられたはずです。その考えているさなか、赤ちゃんが誕生しました。お釈迦様は自分の息子に「ラーフラ」という名前を付けました。「ラーフラ」とは、邪魔なもの、という意味だそうです。
悟りを目指し修行をするというのは、簡単なことではありません。すべてをすてて、その一点に集中しなければなりません。ですから、求道者は、家をすて、家族をすて、山や僧院にこもり修行し、悟りを目指します。しかし、そこにかわいい赤ちゃんが誕生してしまいました。お釈迦様も、抱っこしたい、一緒に遊びたい、いろんなことを教えてあげたい、子供の成長を見届けたいと親心が芽生えたことでしょう。その子供への愛情は、悟りを目指す上では迷いであり、邪魔な存在です。「ラーフラ」という名前からは、お釈迦様のわが子に対する愛情と悟りへ向け求道する真摯な思いとの葛藤が込められているように思います。
仏説無量寿経では、阿弥陀仏のお働きを十二の光に例えて教えてくださっています。そのうちの一つに無礙光というのがあります。無礙光というのは、何物にも妨げられない光という意味です。無礙光が示してくださる通り、阿弥陀という仏様のお働きは、どんな障害物があったとしても念仏者のもとに届いて下さいます。太陽の光は、屋根や壁によって遮られますが、悟りへ向けた道を歩むに当たり、障害となるものは何でしょうか。それは、子供、家族、お金などに対する私の執着です。貪欲、瞋恚、愚痴、と言われる三毒の煩悩です。執着や煩悩は、悟りへ進むものを躊躇させたり、脇道へそらさせたりします。ですから私たちは、なかなか悟りへ向けて歩みを進めることができません。どの方向へ、どう進んでいいのかもわからなくなってしまいます。そんな私たちへ、極楽浄土というゴールに向けて、お念仏の道を歩みなさいと、行き先と方向をはっきりと示してくださっているのが阿弥陀という仏様です。その行き先と方向(道)を光をもって私たちに示してくださっています。阿弥陀仏の無礙光のおはたらきは、私たちの執着や三毒の煩悩も妨げにならず、届いてくださいます。私の煩悩の壁を打ち破って私を照らし、進むべき道を示てくださっています。
私には、子供がいます。家族もあります。とてもではありませんが、お釈迦さまや出家者のように子供や家族を家に残し修行の道を選ぶ、というのは私にはできません。人として、この人間社会の中で、煩悩に惑う生き方しかできないのが私です。阿弥陀という仏様は、そんな私にも、歩むことができる道があると、示してくださっています。「大丈夫、子供と一緒にお念仏を称えて、この道を歩んできなさい。一緒にお浄土に生まれておいで。そしていっしょにお悟りを開いたらいいですよ。」と家族や子供とともに悟りへ歩むことができるお念仏の道を準備してくださいました。仏教徒の最終目標は悟りを得て、仏になることです。その悟りへと歩みを進めるときに、愛情や欲望は邪魔な存在です。私にとって子供は、そして子供にとって私は、お互いに悟りへの道を妨げる存在であるのかもしれません。お念仏の道は、そういう存在の者同士、邪魔者同士も、手を取り合い、歩むことができると教えてくださっています。無礙光のおはたらきは、邪魔な存在を消し去るのではなく、邪魔な存在となるものもそのまま丸抱えで受け止めてくださいます。障りが障りでなく、ともに歩む法の友となってくださいます。ですから、お念仏の道は、凡夫が凡夫のままお浄土へ、そして、お悟りへ向けて歩まさせていただくことができる道です。子供や家族とともに歩むことができる仏道があることに感謝です。そういう思いを込めて称えさせていただくのが南無阿弥陀仏のお念仏です。
昨年の夏は、シアトルマリナーズの試合で始球式をさせていただきました。息子がキャッチャーとして私の投球を受けてくれました。どんどん成長していく息子を見るのが、今の私の楽しみです。春になり、天気が良くなって息子と外でキャッチボールをするのを待ち遠しく思います。いつか大谷翔平選手のようになってくれるんじゃないかとひそかに期待しています。まさに子煩悩、親ばか丸出しです。太陽の光の下でキャッチボールができる日を指折り数えながら、阿弥陀様の、無礙光を味合わさせていただいている今日この頃です。
合掌
私が勤めるシアトル別院では、日系マナーという老人ホームで月に二回、第一、第三木曜日に法話会を開催しています。私も毎月一回は、お参りさせていただくようにしています。ある木曜日、その日は私の当番で、日系マナーにお参りさせていただきました。その日の午後は予定が入っていませんでしたので、お参りの後、ゆっくりできるなとのんびり構えていました。すると、日系マナーに行く直前に妻が、
「私、結ちゃん(息子)の迎えに行けそうにないから、お願いね。」
しかもその日は、妻がほかの子供も面倒を見る予定の日で、遅れていくわけにもいきません。のんびりできるなと思っていたのが、急転、一気に忙しくなってしまいました。息子が生まれる前は、自分の予定だけ考えていればよかったのですが、息子が生まれてからはしばしば息子の予定に合わせて自分の予定を変更しなければいけないことが出てきます。正直、面倒だな、と思うこともありますが、これも子育ての醍醐味の一つですね。
子どもの影響で、自分の今後の人生をどうするか大きく悩まれた方がおられます。それは、お釈迦様です。お釈迦様は、29歳で家を出て(出家)、悟りを求めてご修行されました。これは人生における一大イベントですから、一朝一夕に決心されたわけではないでしょう。長い年数をかけて出家するかどうかを考えられたはずです。その考えているさなか、赤ちゃんが誕生しました。お釈迦様は自分の息子に「ラーフラ」という名前を付けました。「ラーフラ」とは、邪魔なもの、という意味だそうです。
悟りを目指し修行をするというのは、簡単なことではありません。すべてをすてて、その一点に集中しなければなりません。ですから、求道者は、家をすて、家族をすて、山や僧院にこもり修行し、悟りを目指します。しかし、そこにかわいい赤ちゃんが誕生してしまいました。お釈迦様も、抱っこしたい、一緒に遊びたい、いろんなことを教えてあげたい、子供の成長を見届けたいと親心が芽生えたことでしょう。その子供への愛情は、悟りを目指す上では迷いであり、邪魔な存在です。「ラーフラ」という名前からは、お釈迦様のわが子に対する愛情と悟りへ向け求道する真摯な思いとの葛藤が込められているように思います。
仏説無量寿経では、阿弥陀仏のお働きを十二の光に例えて教えてくださっています。そのうちの一つに無礙光というのがあります。無礙光というのは、何物にも妨げられない光という意味です。無礙光が示してくださる通り、阿弥陀という仏様のお働きは、どんな障害物があったとしても念仏者のもとに届いて下さいます。太陽の光は、屋根や壁によって遮られますが、悟りへ向けた道を歩むに当たり、障害となるものは何でしょうか。それは、子供、家族、お金などに対する私の執着です。貪欲、瞋恚、愚痴、と言われる三毒の煩悩です。執着や煩悩は、悟りへ進むものを躊躇させたり、脇道へそらさせたりします。ですから私たちは、なかなか悟りへ向けて歩みを進めることができません。どの方向へ、どう進んでいいのかもわからなくなってしまいます。そんな私たちへ、極楽浄土というゴールに向けて、お念仏の道を歩みなさいと、行き先と方向をはっきりと示してくださっているのが阿弥陀という仏様です。その行き先と方向(道)を光をもって私たちに示してくださっています。阿弥陀仏の無礙光のおはたらきは、私たちの執着や三毒の煩悩も妨げにならず、届いてくださいます。私の煩悩の壁を打ち破って私を照らし、進むべき道を示てくださっています。
私には、子供がいます。家族もあります。とてもではありませんが、お釈迦さまや出家者のように子供や家族を家に残し修行の道を選ぶ、というのは私にはできません。人として、この人間社会の中で、煩悩に惑う生き方しかできないのが私です。阿弥陀という仏様は、そんな私にも、歩むことができる道があると、示してくださっています。「大丈夫、子供と一緒にお念仏を称えて、この道を歩んできなさい。一緒にお浄土に生まれておいで。そしていっしょにお悟りを開いたらいいですよ。」と家族や子供とともに悟りへ歩むことができるお念仏の道を準備してくださいました。仏教徒の最終目標は悟りを得て、仏になることです。その悟りへと歩みを進めるときに、愛情や欲望は邪魔な存在です。私にとって子供は、そして子供にとって私は、お互いに悟りへの道を妨げる存在であるのかもしれません。お念仏の道は、そういう存在の者同士、邪魔者同士も、手を取り合い、歩むことができると教えてくださっています。無礙光のおはたらきは、邪魔な存在を消し去るのではなく、邪魔な存在となるものもそのまま丸抱えで受け止めてくださいます。障りが障りでなく、ともに歩む法の友となってくださいます。ですから、お念仏の道は、凡夫が凡夫のままお浄土へ、そして、お悟りへ向けて歩まさせていただくことができる道です。子供や家族とともに歩むことができる仏道があることに感謝です。そういう思いを込めて称えさせていただくのが南無阿弥陀仏のお念仏です。
昨年の夏は、シアトルマリナーズの試合で始球式をさせていただきました。息子がキャッチャーとして私の投球を受けてくれました。どんどん成長していく息子を見るのが、今の私の楽しみです。春になり、天気が良くなって息子と外でキャッチボールをするのを待ち遠しく思います。いつか大谷翔平選手のようになってくれるんじゃないかとひそかに期待しています。まさに子煩悩、親ばか丸出しです。太陽の光の下でキャッチボールができる日を指折り数えながら、阿弥陀様の、無礙光を味合わさせていただいている今日この頃です。
合掌