法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和7年 12月 法話

 2025年12月 オンライン法話
    
12月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
宗教といわれるものにおいては、「信心」を大切にしない宗教はないと思います。
「信心深い」という言葉もありますが、毎日、お仏壇に手を合わせているので信心深い。お彼岸やお盆など帰省の時には必ずお墓参りに行っているので信心深い。私なりにご先祖様を大切にしているので信心深い。パッと思いつくだけでも様々な「信心深い」というものが目に浮かんできます。
今、例を上げたような「信心深さ」は、ひとりひとりの価値観によって違いがあり、心が和み、やすらぎを感じる「信心深さ」については様々ではないかと思います。
「信心」について辞書で調べますと「神仏を信仰して祈念すること。また、その心。信仰心。」とあり、私の方から仏や神を信じる事を指しています。しかし、浄土真宗における「信心」は、私が信じようとする心ではなく、阿弥陀様の「必ず救う」というお心をそのままいただく「他力の信心」の事であり、世間で言われているような私の方から信じる心ではありません。

親鸞聖人のお弟子さんである唯円房がお書きになられた『歎異抄』という書物は、唯円房が親鸞聖人から直接聞いた言葉が記されておりますが、『歎異抄』後序には、次のような出来事が記されております。
親鸞聖人が法然上人のお弟子さんであった時に、兄弟子と間で、信心について論争をされました。
「この善信(親鸞聖人)の信心も、法然上人のご信心も同じである」と仰ったところ、周りの兄弟子から「どうしてそのようなわけがあろうか」と納得せずに非難されました。師匠の法然上人の信心と善信(親鸞聖人)の信心が同じであるというのは思い上がりであり、とんでもないと反対されたのでした。
そこで、法然上人にどちらが正しいか直接お聞きしたところ、「この源空(法然上人)の信心も如来からいただいた信心です。善信房(親鸞聖人)の信心も如来よりいただかれた信心です。だから、まったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空(法然上人)が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」と申されたのです。

この出来事に記されているとおり、全ての人々が阿弥陀様から同じ信心を頂くのですから、人によってそれぞれ違う信心の深さは関係ありません。
現代において、共にお念仏の道を歩んで下さっている方々でも、自らの「信心深さ」や他人の「信心深さ」を気にされている方がおられるかも知れません。
煩悩が満ち溢れ、自己中心的なものの見方しかできない私達は、自分の都合によって信心の深さを決めてしまいがちです。

私達が日頃からお勤めさせていただいております「正信偈」の中には、『惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃』と記されています。煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる、と示されているのです。
浄土真宗の信心は、私が信じようとするこころではなく、阿弥陀様からめぐまれる信心です。阿弥陀様の「あらゆる人々を平等に救いたい」という願いが成就したおはたらき、「本願力」によってめぐまれる「他力の信心」です。自分の都合で信じようとする心ではありません。私達は、阿弥陀様からめぐまれる信心をいただき、お浄土に生まれ、仏にならせていただくのです。
そして、「あなたを必ず救う、まかせなさい」という阿弥陀様から呼びかけ対して、「はい、おまかせします」が私達の称える南無阿弥陀仏のお念仏です。
信心をいただき、救いのよろこびのなかでお念仏を称えさせて頂き、共にお念仏を申す日々を歩んでいただければと願います。

先にお話した、親鸞聖人と法然上人の出来事については、親鸞聖人の生涯をつづられた『御絵伝』という掛け軸にも描かれています。親鸞聖人の祥月命日の法要である報恩講の際には、この『御絵伝』が本堂の余間に掛けられますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

浄土真宗本願寺派
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