法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和8年 6月 法話 「他力本願」
今月は、「他力本願」について話をさせていただきます。
「他力」とは、阿弥陀様のご本願のおはたらきであり、これを「他力本願」といい、阿弥陀様から私たちに向けられたはたらきであります。
浄土真宗にとって大切な言葉ですが、残念な事に本来の意味とは違うマイナスイメージの俗語として使われています。
俗語の「他力本願」は、「他力」とは他人の力という意味で、「本願」とは自分の願望という意味で使われています。俗語の「他力本願」は、自分の都合のいい願いのため他人の力をあてにするというような怠けた姿勢をあらわす言葉になっています。
なので、「他力本願では駄目だ。自力で頑張らなければ」と、自分で努力をしないで他人の力を当てにするという意味で使われています。
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の「行文類・他力釈」に、
他力といふは如来の本願力なり
と、「他力」とは何かということを端的に表してくださっています。
浄土真宗本来の「他力本願」の場合、「他力」とは 阿弥陀様のおはたらきをさし、「本願」は「すべての衆生を救い仏と成らせよう」という阿弥陀様の願いをさしています。
「他力」とは他人の力ではなく、私たちを真実に導く阿弥陀様のおはたらきです。
「本願」とは自分の願望ではなく、すべての衆生を救いたいという阿弥陀様の願いです。
つまり、「他力本願」とは、阿弥陀様の力であり、すべての衆生を救うと願い、願い通りに救うはたらきのことです。
注意しないといけないのは、自力・他力という言葉は、日常生活での行いについて言っているのではなく、仏のさとりを求めるということについて言っているのです。
阿弥陀様は自分の力ではどうする事も出来ない私たちの姿を見抜かれ、四十八の願いをおこして、南無阿弥陀仏とはたらきかけくださる仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土にうまれさせて仏にならしめん」という願いであります。
阿弥陀様は、私たちを救わんと常に寄り添い、南無阿弥陀仏の喚び声となって、われにまかせよとはたらき続けてくださっています。
その阿弥陀様のご本願のおはたらきにおまかせして、お念仏申しつつ、阿弥陀様につつまれて、浄土への道を歩ませていだだきたいものです。
「他力」とは、阿弥陀様のご本願のおはたらきであり、これを「他力本願」といい、阿弥陀様から私たちに向けられたはたらきであります。
浄土真宗にとって大切な言葉ですが、残念な事に本来の意味とは違うマイナスイメージの俗語として使われています。
俗語の「他力本願」は、「他力」とは他人の力という意味で、「本願」とは自分の願望という意味で使われています。俗語の「他力本願」は、自分の都合のいい願いのため他人の力をあてにするというような怠けた姿勢をあらわす言葉になっています。
なので、「他力本願では駄目だ。自力で頑張らなければ」と、自分で努力をしないで他人の力を当てにするという意味で使われています。
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の「行文類・他力釈」に、
他力といふは如来の本願力なり
と、「他力」とは何かということを端的に表してくださっています。
浄土真宗本来の「他力本願」の場合、「他力」とは 阿弥陀様のおはたらきをさし、「本願」は「すべての衆生を救い仏と成らせよう」という阿弥陀様の願いをさしています。
「他力」とは他人の力ではなく、私たちを真実に導く阿弥陀様のおはたらきです。
「本願」とは自分の願望ではなく、すべての衆生を救いたいという阿弥陀様の願いです。
つまり、「他力本願」とは、阿弥陀様の力であり、すべての衆生を救うと願い、願い通りに救うはたらきのことです。
注意しないといけないのは、自力・他力という言葉は、日常生活での行いについて言っているのではなく、仏のさとりを求めるということについて言っているのです。
阿弥陀様は自分の力ではどうする事も出来ない私たちの姿を見抜かれ、四十八の願いをおこして、南無阿弥陀仏とはたらきかけくださる仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土にうまれさせて仏にならしめん」という願いであります。
阿弥陀様は、私たちを救わんと常に寄り添い、南無阿弥陀仏の喚び声となって、われにまかせよとはたらき続けてくださっています。
その阿弥陀様のご本願のおはたらきにおまかせして、お念仏申しつつ、阿弥陀様につつまれて、浄土への道を歩ませていだだきたいものです。

