法話
法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和4年 7月 法話
法話1
今月は、『正信偈』について話をさせていただきます。
『正信偈』とは、正確には『正信念仏偈』といい、親鸞聖人が書かれた『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の「行巻」の終わりにある六十行百二十句の偈文で、浄土真宗の僧侶・門信徒にとって、朝夕のお勤めに念仏・和讃を加えてつとめる最も身近な勤行聖典であり、お念仏のみ教えとその伝わり、親鸞聖人の信心が簡潔に述べられた大切なお聖教です。
朝夕のお勤めする大切なお聖教だからこそ、なんとなくお勤めするのではなく、書かれてあることをよくよくいただきたいものです。
『正信念仏偈』とは、「念仏を正信する讃偈」ということです。
念仏とは名号であり、「どんな事があっても、あなたを救わずにはおかない」という阿弥陀様のお喚び声のことで、そのお喚び声を素直に聞かせていただき、「阿弥陀様のおはたらきの中で精一杯生き抜かせていただきます」と正信する讃歌であります。
●最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句は、
阿弥陀様のすべての衆生を救うという救いの完全性が示され、阿弥陀様の私を救わんが為 のおはたらきを示されたことばであり、そのまま親鸞聖人の「私は、この苦難の人生を私の事を案じ、どんな時も私がいるよと喚んでくださる阿弥陀様を依り処として精一杯生き抜かせていただきます」という宣言。つまり、親鸞聖人の信仰告白で、無量寿・不可思議光という阿弥陀様の救いをいただき、その名の徳を讃嘆する偈であることを表してます。
●「法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就」で、
阿弥陀様は、法蔵菩薩の時、罪悪深重の凡夫を救わんが為に、名号を聞かせて本願を信じさせ、念仏もうすものに育てて救おうと誓う本願がおこされた事情が述べられ、その本願が成就し仏となられた阿弥陀様は、限りない智慧の光明をもって、すべての世界・生きとし生けるものを導き、本願の名号を信ぜしめ浄土へ往生せしめて、完全な目覚めを与えてくださる方であると阿弥陀様の救済活動を光明と名号をもって讃嘆され、
●「如来所以興出世~難中之難無過斯」で、
お釈迦様がおでましになられたのは、阿弥陀様の本願を説かれるためで、人々に教えを素直に受け、本願を信じ、お念仏もうさせていただこうと勧められ、信心いただいたものの利益をあげ、私たちには理解できないほどのすばらしい法であると讃え・勧められ、
●「印度西天之論家~唯可信斯高僧説」で、
お釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々がうけつぎ、その七人の高僧方々の解釈やエピソードを一人ひとり順に讃えられ、七人の高僧方々の仰せをいただき、共にお念仏の道を歩ませていただきましょうと勧められた。
と言うことが説かれてあります。
つまり、阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がり、光明をもって照らし・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏さまとなられたのは、この私たちの為であったことをお釈迦様は明らかにされ、お念仏のみ教えをお伝えし・おすすめ下さり、そのお釈迦様がおすすめ下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々が、分かりやすいよう解釈しおすすめ下さった。
その七高僧のおすすめがあったからこそ、親鸞聖人はお念仏に出遇われ・自らがいただかれ・よろこばれ、共にお念仏の道を歩みましょう とおすすめ下さっていることが、『正信念仏偈』によって示されています。
親鸞聖人のおすすめをたくさんの先人の方々が受け継ぎ・お伝えして下さったからこそ、今私達はお念仏に出遇うことができたのです。
朝夕のお勤めする大切なお聖教だからこそ、なんとなくお勤めするのではなく、
阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がって下さり・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏さまとなられたのは、この私の為であったといただき、お釈迦様・七高僧・親鸞聖人・たくさんの先人の方々のお陰により、お念仏のみ教えに遇うことができたことを感謝し、一句一句大切に読み、お念仏もうし・よろこばせていただきたいものです。
『正信偈』とは、正確には『正信念仏偈』といい、親鸞聖人が書かれた『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の「行巻」の終わりにある六十行百二十句の偈文で、浄土真宗の僧侶・門信徒にとって、朝夕のお勤めに念仏・和讃を加えてつとめる最も身近な勤行聖典であり、お念仏のみ教えとその伝わり、親鸞聖人の信心が簡潔に述べられた大切なお聖教です。
朝夕のお勤めする大切なお聖教だからこそ、なんとなくお勤めするのではなく、書かれてあることをよくよくいただきたいものです。
『正信念仏偈』とは、「念仏を正信する讃偈」ということです。
念仏とは名号であり、「どんな事があっても、あなたを救わずにはおかない」という阿弥陀様のお喚び声のことで、そのお喚び声を素直に聞かせていただき、「阿弥陀様のおはたらきの中で精一杯生き抜かせていただきます」と正信する讃歌であります。
●最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句は、
阿弥陀様のすべての衆生を救うという救いの完全性が示され、阿弥陀様の私を救わんが為 のおはたらきを示されたことばであり、そのまま親鸞聖人の「私は、この苦難の人生を私の事を案じ、どんな時も私がいるよと喚んでくださる阿弥陀様を依り処として精一杯生き抜かせていただきます」という宣言。つまり、親鸞聖人の信仰告白で、無量寿・不可思議光という阿弥陀様の救いをいただき、その名の徳を讃嘆する偈であることを表してます。
●「法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就」で、
阿弥陀様は、法蔵菩薩の時、罪悪深重の凡夫を救わんが為に、名号を聞かせて本願を信じさせ、念仏もうすものに育てて救おうと誓う本願がおこされた事情が述べられ、その本願が成就し仏となられた阿弥陀様は、限りない智慧の光明をもって、すべての世界・生きとし生けるものを導き、本願の名号を信ぜしめ浄土へ往生せしめて、完全な目覚めを与えてくださる方であると阿弥陀様の救済活動を光明と名号をもって讃嘆され、
●「如来所以興出世~難中之難無過斯」で、
お釈迦様がおでましになられたのは、阿弥陀様の本願を説かれるためで、人々に教えを素直に受け、本願を信じ、お念仏もうさせていただこうと勧められ、信心いただいたものの利益をあげ、私たちには理解できないほどのすばらしい法であると讃え・勧められ、
●「印度西天之論家~唯可信斯高僧説」で、
お釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々がうけつぎ、その七人の高僧方々の解釈やエピソードを一人ひとり順に讃えられ、七人の高僧方々の仰せをいただき、共にお念仏の道を歩ませていただきましょうと勧められた。
と言うことが説かれてあります。
つまり、阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がり、光明をもって照らし・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏さまとなられたのは、この私たちの為であったことをお釈迦様は明らかにされ、お念仏のみ教えをお伝えし・おすすめ下さり、そのお釈迦様がおすすめ下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々が、分かりやすいよう解釈しおすすめ下さった。
その七高僧のおすすめがあったからこそ、親鸞聖人はお念仏に出遇われ・自らがいただかれ・よろこばれ、共にお念仏の道を歩みましょう とおすすめ下さっていることが、『正信念仏偈』によって示されています。
親鸞聖人のおすすめをたくさんの先人の方々が受け継ぎ・お伝えして下さったからこそ、今私達はお念仏に出遇うことができたのです。
朝夕のお勤めする大切なお聖教だからこそ、なんとなくお勤めするのではなく、
阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がって下さり・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏さまとなられたのは、この私の為であったといただき、お釈迦様・七高僧・親鸞聖人・たくさんの先人の方々のお陰により、お念仏のみ教えに遇うことができたことを感謝し、一句一句大切に読み、お念仏もうし・よろこばせていただきたいものです。
法話2
「チエ」という言葉あります。
これを漢字で書くとどのような字になるでしょうか。
私たちが一般的に使う「チエ」は「知恵」という漢字ではないでしょうか。
しかし、仏教では「チエ」という言葉を使うときは、「智慧」と書きます。
「知恵」とは、物事を自分の経験で理解しようとすることであり、
「智慧」とは、物事をありのままを正しく見極めることです。
こういうお話しがあります。
ある山に1人の男が住んでいました。
ある日、町にでかけました。
町で、海に住んでいる友達に出あいました。
話をしているうちに喧嘩になったそうです。
見るに見かねた町の人が間に入って話を聞いてみました。
山の友達がいいました。
「お日さまは山から昇って山に沈むよね?」
海の友達がいいました。
「それは違うよ。お日さまは海から昇って海に沈むよね」
2人はお日さまがどこから昇ってどこに沈むかで喧嘩をしていたのです。
すると間に入ってきた町の人は言いました。
「両方とも違うよ」
「お日さまはね、ビルから昇ってビルに沈むんだよ」と
どの答えが正解なのでしょうか?
すべてが「間違いではないけど正解でもない」としか言いようがありません。
三人ともお日さまを見た場所が異なるので、それぞれに見た縁によって答えただけです。
私たちは縁によって見え方が異なり、信じるものが異なってきます。
しかし、実際には太陽は動いていません。
地球が自転しているので、昇ったり沈んだり見えているだけなのです。
如来様は「智慧」の眼で私を見てくださいました。そして
南無阿弥陀仏「われにまかせよ そのまま救う」と呼びかけ続けておられます。
南無阿弥陀仏のお念仏はお日さまと同じです。
お日さまはどのような縁であっても明るさと温かさを私に届けてくれます。
如来さまから届くお慈悲。それが南無阿弥陀仏のお念佛です。