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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和4年 2月 法話
法話1
さて、昨年12月の事ですが、長崎市仏教連合会主催の歳末助け合い義援金托鉢に参加させて頂きました。私達の浄土真宗本願寺派だけでなく、本願寺派以外の真宗他派、真言宗、日蓮宗、黄檗宗など、様々な宗派の僧侶が集まり托鉢を行いました。
いろいろな宗派の僧侶の方々とお話しをする時間もあり、また、他宗派の寺院の本堂が集合場所となっており、そのような場所に入るような機会も意外と無いものですから、とてもいい経験になりました。
僧侶の姿も様々で、私達のように普通の髪型の方もいれば、剃髪をしている方もいます。袈裟の形も様々です。日本には様々な仏教があるものだと改めて気付く事ができました。

宗派によって経典も異なります。私達の真宗各派では「南無阿弥陀仏」と称えますが、他の宗派では「南無妙法蓮華経」、「南無釈迦牟尼仏」、「南無大師遍照金剛」など、宗派が違えばお称えも様々です。
それぞれの最初に「南無」という言葉がありますが、「南無」とは、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「namas(ナマス)」からきており、「帰依する」つまり「全てをおまかせします」という意味があります。
よって、私達がお称えする「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様に全てをおまかせします。」という意味です。
そして、「南無妙法蓮華経」とは「法華経という教えに全てをおまかせします」、「南無釈迦牟尼仏」とは「お釈迦様に全てをおまかせします」、「南無大師遍照金剛」とは、遍照金剛は弘法大師空海さんの事ですので「弘法大師空海様に全てをおまかせします」という意味になります。

日本の仏教には様々な宗派があって、各ご家庭、それぞれのご縁によって仏様は違いますが、私達の浄土真宗は、阿弥陀様に全てをおまかせするみ教えです。
では、私達は阿弥陀様に何をおまかせするのでしょうか。

宝くじがあたりますように、志望校に合格できますように、病気にかかりませんように、そのような願いが叶うよう、阿弥陀様に全てをおまかせして、私達の願いをかなえてくださるでしょうか。結論から言うと、残念ながら、叶えては下さいません。
それは、私たちの願いというのは、必ずといっていいほど、自分を中心に考えた心から生まれる願いであるからです。

それでは、阿弥陀様は、どんな仏様なのでしょうか。まず、阿弥陀様という仏様は地球上に現れた仏さまではありません。この地球上に現れた仏様はお釈迦様だけです。
その、お釈迦様が説かれた経典によってお伝え下さったのが阿弥陀様なのです。
阿弥陀様がどんな仏様かということは、そのお姿やお仏壇のお飾りに表されています。
阿弥陀様は、右手を上げ、左手を下げ、ともに親指と人差し指で輪を作っています。右手は「招喚の印」と言って、私たちを正しい方向に招き喚んで下さる「智慧」のはたらきを表し、左手は「摂取の印」と言って、私たちを必ず救い取って下さる「慈悲」の心を表しています。
そして、お仏壇のお飾りであるローソクの灯りは「智慧」を表し、お花は「慈悲」を表しています。
「智慧」とは、世の中の物事をありのままに見極める事です。
一般的に「ちえ」と聞くと「知恵袋」の「知恵」を思い浮かべる方が多いと思います。この「知恵」は、人間が成長するにつれて、物事を学んだり、考えたりすることを指します。
この「知恵」に対して、阿弥陀様の「智慧」の光は、私を照らし、目覚めさせ、心の闇を破ってくださるのです。阿弥陀様の「智慧」に遇えば遇うほど、私の愚かさ、恥ずかしさ、罪業の深さに気づかされるのです。
そして、「慈悲」とは、生きとし生けるものに対する、分け隔てのない慈しみ、悲しみの事です。
「慈悲深い人」という言葉がありますが、相手からの見返りを一切求めない、情け深い人を意味しますが、人間の慈悲には限界があります。災害があって募金をしようと思っても、自分の全財産を出す事はなかなかできません。他人の子どもよりも自分の子どもを可愛がります。
阿弥陀様の「慈悲」の心は、いつまでも変わらず、すべての衆生に平等なものです。

親鸞聖人は『高僧和讃』に、

  煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

煩悩だらけで自分中心の生活に明け暮れる私は、阿弥陀様の光明を見ることができません。しかし、阿弥陀様は、この私を摂め取り、捨てずにおれないと慈悲のお心で、私の闇を常に照らし護ってくださっているのです、と記されています。

阿弥陀さまの光に出遇わさせていただき、その御恩に報い、ただただ感謝のお念仏を申させて頂くことが大切です。


法話2
今月は、「法名」について話をさせていただきます。

人が亡くなられると「天国でやすらかに」と言われます。この世ではない世界をあらわす言葉として「天国」がよく使われているようです。

しかし、仏教徒がこの世を終わって行く世界は天国ではありません。仏さまの世界は、天の国ではなく、「清らかな国土」である「浄土」であります。

同じように、仏教徒としての名前をあらわす言葉として「戒名」が有名です。
浄土真宗には戒名はないのですが、「釋〇〇」というのを戒名と思い込んでおられる方もいるようです。
浄土真宗の「釋〇〇」は「法名」といい、戒名ではありません。
どちらも同じものと思われている方もあるようなので、「法名」と「戒名」について考えてみましょう。

●「戒名」とは、仏道修行の規律である戒律を守り、修行していくことを誓う、受戒のときにいただくものです。
戒名を名のるからには、戒律を守らなければなりません。
戒律とは、仏教徒として生きていく上でのいろいろな規律です。
つまり、戒名というのは、戒律に生きる人の名前です。

●それに対して「法名」とは、仏教に帰依し、仏法をよりどころとして生きる仏弟子となった人の名前・「法」に生きる人の名前です。
浄土真宗のみ教えは、阿弥陀さまの本願力によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、浄土へ仏として往き生まれるのであります。
きめられた戒律を守る受戒はしませんし、戒律に生きるのではありません。
戒律の一つも守ることの出来ない私を必ず救い、浄土へ迎えるという阿弥陀さまのおはたらきを「法」と呼び、私たちはその阿弥陀さまの「法」の名で生かされています。
だから名のるのは「戒名」ではなく「法名」といいます。

また、「法名」は亡くなった後にいただくものと思われている方もいますが、仏弟子となった人の名前ですから、本来は生前にいただくものです。

僧侶は得度式のときに、門信徒の方は帰敬式(おかみそり)を受けたときに、仏弟子となったしるしとして、ご本山から「法名」をいただきます。この「法名」は、僧侶・門信徒ともに漢字二文字ときめられていて、うえに必ず「釈」の字がつきます。
この「釈」には、お釈迦さまの弟子にさせていただきましたという意味があります。

帰敬式を受けることなく亡くなられた方は、葬儀を勤める住職がおかみそりを行い、法名をいただくことになります。

仏弟子としてお念仏申させていただく「法」に生きるものとしては、ご縁があれば帰敬式を受け、法名をいただきたいものであります。



浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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