ひかり子ども会
光源寺ひかり子ども会
子ども達よ 仏さまのもとで のびのび遊べ!
開催日 | 毎週土曜日午後7時~8時
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参加者
| 仏の子ども (門信徒以外でも大歓迎)
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参加費
| なし
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プログラム
| 読経 法話 ゲーム 紙芝居等 |
毎週変わらないプログラムで活動している光源寺ひかり子ども会
初めての方も大歓迎!一度遊びにきてください。
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子ども会特別プログラム
1月
| 餅焼き会
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2月
| 節分
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4月
| はなまつり「お釈迦さまの誕生日」
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5月
| 母の日
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7月
| 七夕
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8月
| お泊り会
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12月
| 仏の子どもの集い 「除夜の鐘」大掃除
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子ども会100年の歩み
明治42・6・6
| 先代住職・越中聞信師、 履歴書に 「明治四十二年六月六日より自坊において日曜学校を開く。」 と記す。 これ以前も日曜学校は開かれていたと古い門徒の方は話すが記録なし。
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大正3・1
| 西本願寺は大正元年、 日曜学校活動発展のために月刊誌 「日曜日」 を発刊する。 この雑誌の創刊当初より 「ひかり子ども会」 の前身 「光闡日曜学校」 の子供たちの投稿が載る。 大正三年の 「少年少女文壇懸賞応募作文」 で伊良林町一丁目の大塚ひで子が二等賞をもらう。
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大正8・10・30
| この頃、 仏教青年会活動が活発。 当時の住職・活雷師が主宰し、 主に長崎医専、 長崎高商の学生に対し教化活動を行う。 近代の名僧とうたわれる暁鳥敏 (あけがらす はや) 師、 藤原鉄乗師等が訪れる。 著名な歌人・斎藤茂吉や若山牧水が光源寺に参ったのもこの頃である。 |
大正10年頃
| 寺の事情で日曜学校活動が休止される。
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昭和13年夏
| 現住職の兄・越中哲也先生、 龍谷大学に進み教育学の大家・山崎昭見教授の下で少年教化を学び、 光源寺の日曜学校を復活させる。 越中先生が語る 「鞍馬天狗」 の話に人気が集まった。
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昭和18年
| 越中哲也先生出征、 昭和二十年九月復員。
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昭和21年春
| 越中哲也先生、 日曜学校を再開する。 娯楽に飢えた子ども達に夢を与える。 ほぼ同じ頃、 今籠町・福田稔先生、 永昌寺・鉄山良弘師、 観善寺・立花文昌師等も日曜学校活動を活発に行う。
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昭和24年頃
| この頃、 ブームというか 日曜学校の名称が子ども会と変わる。 「光源寺日曜学校」 も 「ひかり子ども会」 となった。 又、 仏教系日曜学校の団体 「長崎市仏教教育連盟」 は 「花まつり」 を祝って毎年、 出島にあった演芸場 「三菱会館」 を貸し切って盛大な祝賀演芸大会を挙行する。
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昭和27・6・16
| 社会教育法施行三周年記念で、 越中哲也先生が社会教育功労者として長崎市長表彰を受ける。 表彰状文面は、 「昭和十三年、 ひかり子ども会を結成し献身的に指導育成に当たり、 その功績大なるものがある。 よってその功をたたえ表彰する」
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昭和32・4
| 楠住職、 龍谷大学へ進学、 兄に続き山崎昭見師から少年教化を学ぶ。 市立博物館学芸員として多忙となった越中哲也先生が退き、 楠住職が三代目指導者として 「ひかり子ども会」 を引継ぐ。
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昭和34・5
| 県教育委員会主催の 「長崎県子供大会」 に長崎市代表として参加、 児童劇 「横町に日が照れば」 を演じ絶賛を浴びる。 当時、 始まったばかりのNBCテレビのローカルニュースで紹介される。
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昭和34・8
| 長崎大学学芸学部の学生サークルが、 児童文化の研修で視察に訪れる。 この頃の子ども会活動は非常に活発、 中心となったのは団塊の世代と呼ばれる当時の小学生・中学生たちだった。
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昭和48年夏休み
| 昭和四十年代に入ると、 社会情勢の変化か、 子ども会活動が下火となっていく。 原因は子供の減少、 塾通い、 テレビの影響等。 この年七月の子ども会では出席者が一人という時があった。 楠住職はこの時を、 「このとき止めなくてよかった。 子ども一人でも子ども会は出来る」
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昭和51・5
| この年行われた 「中島川まつり」 で七十年振りに 「陸ペーロン」 が復活した。 コースは中島川をまたぐ光永寺一帯、 常日頃、 集団行動に慣れている 「ひかり子ども会」 の子ども達が掛けた剣旗すべてを持ち帰った。
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昭和56・4
| 「ひかり子ども会」 復興。 中心となったのは昭和三十年代を 「ひかり子ども会」 で過ごしたOBたち、 それぞれ家庭を持ったかつての会員達がわが子の手を引いて 「ひかり子ども会」 に参加した。
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昭和57・11・1
| 記念誌 『伊良林のこどもたち』 発刊。 「ひかり子ども会」 の歴史を中心に、 明治期から現代の長崎市内の日曜学校、 子供会等の歴史等を集大成。
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昭和61・4
| 子ども会の参加者は七十人。 本堂が子ども達に占領される。 中学生も十一人出席。
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平成3・6
| 長崎市の広報紙「広報ながさき」で 「ひかり子ども会」 を表紙で紹介。 見出しは「子ども会を通じた人づくり」
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平成6・12
| 即如ご門主長崎組ご巡教、 光源寺ご巡回の法話で、 「子ども会、 子供さんの教化活動につきましては以前から私も耳にしておりました。 皆様方が長い伝統を受け継ぎ、 仏の子どもを育ててくださっているということを本当にうれしく思います」と語られた。
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平成7・6・15
| 永年の少年教化に対し 「正力松太郎賞」 を受賞。
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平成8・2
| 住職長男。 直也さんが得度。 直ちに少年教化の全国組織 「全青協日曜学校研修会」 に参加する。
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平成13年
| 「ひかり子ども会」 がまたピンチとなる。
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平成18・1
| 「ひかり子ども会」 創立一〇〇周年に向かって準備を始める。 土曜日夜の子ども会、 毎週二、 三十人がコンスタントに参加。
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平成19・11
| ナガサキピースミュージアムで「ひかり子ども会展」開催。 およそ一ヶ月間。
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平成20・11
| 本願寺が子ども達の声が聞こえるお寺を目指し 「キッズサンガ」 運動を本格的にスタートさせる。 教科書となるビデオの作成、 「ひかり子ども会」 がモデルとなりビデオ撮影が行われる。
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平成21・11
| 「ひかり子ども会」 創立一〇〇周年
記念電車が二ヶ月運行する。 長崎玉屋で「ひかり子ども会100年展」開催。 ビック子ども会開催。250人が参加し、本願寺新報 大乗 ピッパラ等宗教雑誌にも掲載される。 九州地区指導者研修会が長崎玉屋で開催され、光源寺住職が講師として講義をする。 |
平成22・11
| 「光源寺子ども会発祥の地」に記念碑設立 誕生仏を安置する。
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平成24・9
| NBCアップルで「長崎にのこしたい風景」としてひかり子ども会のお泊り会が紹介される。
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