法話(オンライン法話のテキスト版です)
令和7年 1月 法話
法話1
今月は、「報恩講」について話をさせていただきます。
「報恩講」とは、九十年の人生をとおし、私たちにお念仏のみ教えをお示し下さった親鸞聖人のご遺徳を偲び、ご恩に報謝する法要です。
ご本山では、毎年聖人のご正忌(祥月命日の1月16日)に合わせて、1月9日から1月16日まで勤められるので、「御正忌報恩講」と言います。
親鸞聖人は、九歳の時に出家得度をされ、比叡山で二十年間、さとりの道を探求されました。
しかし、修行を積むほど、学問に励むほど、さとりに近づくどころか、煩悩に束縛され、どうする事も出来ない凡夫である自分の姿に気づかれ、比叡山を下りる決心をされました。
そんな中、法然上人のもとを訪ねられ、
「その自分では、どうする事も出来ない凡夫である あなた こそ、ほってはおけないと救いの目当てとされ、何もかも仕上げ立ち上がり、南無阿弥陀仏とはたらきかけて下さっているのが阿弥陀様である。」とお念仏のみ教えに出遇われ、阿弥陀如来の本願に帰する身となられました。
今、私たちがお念仏のみ教えに出遇う事が出来たのは、間違いなく親鸞聖人のおかげです。
しかし、親鸞聖人だけではなく、その聖人にお念仏を伝えて下さった方々がおられる事を忘れてはいけません。
その事を簡潔に書かれてあるのが、『正信念仏偈』であります。
●阿弥陀様は、法蔵菩薩の時、罪悪深重の凡夫を救わんが為に、名号を聞かせて本願を信じさせ、念仏もうすものに育てて救おうと誓う本願をおこされ、その本願が成就し仏となられた阿弥陀様は、限りない智慧の光明をもって、すべての世界・生きとし生けるものを救う為、「南無阿弥陀仏」とはたらきかけて下さる仏様となられた。
●約二千五百年前、お釈迦様がおでましになられ、「南無阿弥陀仏」とはたらきかけて下さる阿弥陀様を発見され、『浄土三部経』を説かれて、お念仏のみ教えをお伝え下さり、お勧め下さった。
●お釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本の源信和尚・源空(法然)上人の七人の高僧方々が受け継がれ、私たちにより分かりやすいように解釈し、お勧め下さった。
つまり、阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がり、光明をもって照らし・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏様となられたのは、この私たちの為であったことをお釈迦様は明らかにされ、お念仏のみ教えをお伝えし・お勧め下さり、そのお釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々が、分かりやすいよう解釈しお勧め下さった。
その七高僧のお勧めがあったからこそ、親鸞聖人はお念仏に出遇われ・自らがいただかれ・よろこばれ、共にお念仏の道を歩みましょう とお勧め下さっていることが、『正信念仏偈』によって示されています。
その聖人のお勧めをたくさんの先人の方々が受け継ぎ・お伝えして下さったからこそ、今私達はお念仏に出遇うことができたのです。
「報恩講」のご縁をいただき、親鸞聖人を偲び、凡夫である私たちを「ほってはおかん」と立ち上がって下さり・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様のみ名をいただき、自らが拠り所とし、よろこばせていただき、そのよろこびを親鸞聖人のように、今まで伝えてくださった方々のように、次の方に伝えていく。そのようにつとめさせていただきたいものです。
「報恩講」とは、九十年の人生をとおし、私たちにお念仏のみ教えをお示し下さった親鸞聖人のご遺徳を偲び、ご恩に報謝する法要です。
ご本山では、毎年聖人のご正忌(祥月命日の1月16日)に合わせて、1月9日から1月16日まで勤められるので、「御正忌報恩講」と言います。
親鸞聖人は、九歳の時に出家得度をされ、比叡山で二十年間、さとりの道を探求されました。
しかし、修行を積むほど、学問に励むほど、さとりに近づくどころか、煩悩に束縛され、どうする事も出来ない凡夫である自分の姿に気づかれ、比叡山を下りる決心をされました。
そんな中、法然上人のもとを訪ねられ、
「その自分では、どうする事も出来ない凡夫である あなた こそ、ほってはおけないと救いの目当てとされ、何もかも仕上げ立ち上がり、南無阿弥陀仏とはたらきかけて下さっているのが阿弥陀様である。」とお念仏のみ教えに出遇われ、阿弥陀如来の本願に帰する身となられました。
今、私たちがお念仏のみ教えに出遇う事が出来たのは、間違いなく親鸞聖人のおかげです。
しかし、親鸞聖人だけではなく、その聖人にお念仏を伝えて下さった方々がおられる事を忘れてはいけません。
その事を簡潔に書かれてあるのが、『正信念仏偈』であります。
●阿弥陀様は、法蔵菩薩の時、罪悪深重の凡夫を救わんが為に、名号を聞かせて本願を信じさせ、念仏もうすものに育てて救おうと誓う本願をおこされ、その本願が成就し仏となられた阿弥陀様は、限りない智慧の光明をもって、すべての世界・生きとし生けるものを救う為、「南無阿弥陀仏」とはたらきかけて下さる仏様となられた。
●約二千五百年前、お釈迦様がおでましになられ、「南無阿弥陀仏」とはたらきかけて下さる阿弥陀様を発見され、『浄土三部経』を説かれて、お念仏のみ教えをお伝え下さり、お勧め下さった。
●お釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本の源信和尚・源空(法然)上人の七人の高僧方々が受け継がれ、私たちにより分かりやすいように解釈し、お勧め下さった。
つまり、阿弥陀様が「ほってはおかん」と立ち上がり、光明をもって照らし・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる仏様となられたのは、この私たちの為であったことをお釈迦様は明らかにされ、お念仏のみ教えをお伝えし・お勧め下さり、そのお釈迦様がお勧め下さったお念仏のみ教えをインド・中国・日本の七人の高僧方々が、分かりやすいよう解釈しお勧め下さった。
その七高僧のお勧めがあったからこそ、親鸞聖人はお念仏に出遇われ・自らがいただかれ・よろこばれ、共にお念仏の道を歩みましょう とお勧め下さっていることが、『正信念仏偈』によって示されています。
その聖人のお勧めをたくさんの先人の方々が受け継ぎ・お伝えして下さったからこそ、今私達はお念仏に出遇うことができたのです。
「報恩講」のご縁をいただき、親鸞聖人を偲び、凡夫である私たちを「ほってはおかん」と立ち上がって下さり・「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様のみ名をいただき、自らが拠り所とし、よろこばせていただき、そのよろこびを親鸞聖人のように、今まで伝えてくださった方々のように、次の方に伝えていく。そのようにつとめさせていただきたいものです。
法話2
2025年1月 オンライン法話
1月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
私は趣味でギターを弾きますが、ずっと独学でやってきたので変な癖もついており、とても人前で演奏できるレベルではありません。
30年程前、サラリーマンをしていた時の話ですが、職場の先輩がバンド活動をしておりました。バックの伴奏にあわせて、ギターやサックスがアドリブのソロを回していくというスタイルのジャズバンドで、先輩はギタリストとして参加されていました。
何度か練習されているスタジオに遊びに行った事がありまして、そこで先輩からギターを習っていたのですが、なかなか上達できず、また、バンドのレベルも高くて練習に足が向かなくなってしまいました。その後、幾度かライブを観に行ったのですが、たとえアマチュアバンドであっても、感情を込めてギターを奏でる先輩の姿は、やっぱり格好良かったです。
私も先輩のようにアドリブでギターソロを弾けるようになりたいと思っていましたが、そのレベルに近づくこともできないまま長年が経っていました。
実は1年程前の事になりますが、もう一度、ギターを基礎から学んでみたいと思って、ギター教室の体験レッスンに行ったことがありました。
体験レッスンでは先生がギターで伴奏を弾きます。伴奏は和音で鳴らされているのですが、その和音と響きあう音を使ってアドリブのギターソロを弾くレッスンでした。
しかし、音楽の基礎を理解していない私は、和音と響き合わない音を使ってフレーズを弾いてしまい、不協和音となった耳障りのフレーズになってしまいました。
響き合う音が解らないままでは、先生の伴奏にあわせたフレーズは弾くことはできません。和音の構成音を意識することによって、伴奏と響き合うギターソロになるのです。
響き合う音を理解せずに不協和音となっているフレーズは、何だか、私の日常の姿と重なっていると感じました。
周囲の状況を考えることができずに自分が正しいと思ってしまう。不協和音となってしまう原因は自分自身にあるにも関わらず、自分の理解だけを正しいと考え、都合の良い解釈をしてしまう。不協和音とならない為に周囲が互いに譲り合っている事に気づいておらず、自己中心的な生き方しかできていない、煩悩だらけの私の姿を表しているように思いました。
実は、親鸞聖人が記された『浄土和讃』のなかには、音階のそれぞれの音を私達の姿に例えられたご和讃があります。
清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり 清浄薫を礼すべし
お浄土では清らかな風が美しい樹々の葉を揺らして、宮(きゅう)、商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)の五つの音を奏でている。そこではすべての音がありのままでよく調和する。このような声が清らかににおう阿弥陀如来を礼拝しましょう、と記されています。
宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)とは、雅楽で使われる五音階の事です。これを、西洋音楽のハ長調に置き換えて、宮(きゅう)を「ド」とした場合に、商(しょう)は「レ」になり、これを同時に弾くと不協和音となって響き合うことはできません。
しかし、このご和讃でいわれる「宮商和して自然なり」というのは、「ド」と「レ」の音がお互いに綺麗に響き合うという意味です。
この「宮」と「商」は、自己中心的な生き方しかできない煩悩だらけの私達の姿です。
阿弥陀様は「宮」と「商」が自然に調和する世界を開かなければならないと誓われ、お浄土を作られたのです。不協和音であるものが、お浄土では調和して、ぶつかることなく響き合っていくということです。
しかし、調和するお浄土という世界があるからと言って、わがままで自分勝手に生きていいと言う事ではありません。煩悩だらけで自己中心的な生き方しかできない、それが私達の真実の姿であると気づく事が大切です。
そして、たとえ不協和音であっても、この世の縁が尽きた時には、全ての命が調和する世界のお浄土に、共に仏となって生まれ往く存在であると気づかさせて頂きながら、阿弥陀様の智慧の光に照らされているなかに、私達は、多くの方々に支えられて生かされていると気づく事ができるのではないでしょうか。
1月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
私は趣味でギターを弾きますが、ずっと独学でやってきたので変な癖もついており、とても人前で演奏できるレベルではありません。
30年程前、サラリーマンをしていた時の話ですが、職場の先輩がバンド活動をしておりました。バックの伴奏にあわせて、ギターやサックスがアドリブのソロを回していくというスタイルのジャズバンドで、先輩はギタリストとして参加されていました。
何度か練習されているスタジオに遊びに行った事がありまして、そこで先輩からギターを習っていたのですが、なかなか上達できず、また、バンドのレベルも高くて練習に足が向かなくなってしまいました。その後、幾度かライブを観に行ったのですが、たとえアマチュアバンドであっても、感情を込めてギターを奏でる先輩の姿は、やっぱり格好良かったです。
私も先輩のようにアドリブでギターソロを弾けるようになりたいと思っていましたが、そのレベルに近づくこともできないまま長年が経っていました。
実は1年程前の事になりますが、もう一度、ギターを基礎から学んでみたいと思って、ギター教室の体験レッスンに行ったことがありました。
体験レッスンでは先生がギターで伴奏を弾きます。伴奏は和音で鳴らされているのですが、その和音と響きあう音を使ってアドリブのギターソロを弾くレッスンでした。
しかし、音楽の基礎を理解していない私は、和音と響き合わない音を使ってフレーズを弾いてしまい、不協和音となった耳障りのフレーズになってしまいました。
響き合う音が解らないままでは、先生の伴奏にあわせたフレーズは弾くことはできません。和音の構成音を意識することによって、伴奏と響き合うギターソロになるのです。
響き合う音を理解せずに不協和音となっているフレーズは、何だか、私の日常の姿と重なっていると感じました。
周囲の状況を考えることができずに自分が正しいと思ってしまう。不協和音となってしまう原因は自分自身にあるにも関わらず、自分の理解だけを正しいと考え、都合の良い解釈をしてしまう。不協和音とならない為に周囲が互いに譲り合っている事に気づいておらず、自己中心的な生き方しかできていない、煩悩だらけの私の姿を表しているように思いました。
実は、親鸞聖人が記された『浄土和讃』のなかには、音階のそれぞれの音を私達の姿に例えられたご和讃があります。
清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり 清浄薫を礼すべし
お浄土では清らかな風が美しい樹々の葉を揺らして、宮(きゅう)、商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)の五つの音を奏でている。そこではすべての音がありのままでよく調和する。このような声が清らかににおう阿弥陀如来を礼拝しましょう、と記されています。
宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)とは、雅楽で使われる五音階の事です。これを、西洋音楽のハ長調に置き換えて、宮(きゅう)を「ド」とした場合に、商(しょう)は「レ」になり、これを同時に弾くと不協和音となって響き合うことはできません。
しかし、このご和讃でいわれる「宮商和して自然なり」というのは、「ド」と「レ」の音がお互いに綺麗に響き合うという意味です。
この「宮」と「商」は、自己中心的な生き方しかできない煩悩だらけの私達の姿です。
阿弥陀様は「宮」と「商」が自然に調和する世界を開かなければならないと誓われ、お浄土を作られたのです。不協和音であるものが、お浄土では調和して、ぶつかることなく響き合っていくということです。
しかし、調和するお浄土という世界があるからと言って、わがままで自分勝手に生きていいと言う事ではありません。煩悩だらけで自己中心的な生き方しかできない、それが私達の真実の姿であると気づく事が大切です。
そして、たとえ不協和音であっても、この世の縁が尽きた時には、全ての命が調和する世界のお浄土に、共に仏となって生まれ往く存在であると気づかさせて頂きながら、阿弥陀様の智慧の光に照らされているなかに、私達は、多くの方々に支えられて生かされていると気づく事ができるのではないでしょうか。