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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和4年 6月 法話
法話1
先日あるお家に、ご法事でお参りさせて頂きました。お家に入るなり、迎えてくれた小型犬に、これでもかって言う程吠えられました。私、ワンちゃんは昔から大好きなのですが、よく吠えるコは、少し苦手でございます。急に吠えられますとビクッとしますし、なにより落ち着きません。
 まぁでもこれだけ吠えるんだから、ご法事のお勤め中は他の部屋に連れていかれるんだろうなぁと思っておりました。が、そんな事はなくずっと吠えながら、私の後ろをついてきました。
 仏間に座りお経が始まりますと、吠えるのをやめてくれましたが、それでも「ウー、ウー」と今にも「また吠えてやるぞ」と言わんばかりの声をあげておりました。
 臆病な私は、背中の方から聞こえてくるその声のせいで、落ち着かなく、「またいつ吠えられるんだろうか。頼むから急に吠えるのだけはやめてくれ」そう思いながらお勤めしておりました。
が、お経の途中で鏧を「チーン」と鳴らすと、その音に反応してまた物凄い勢いで吠え始めました。あまりに吠えるもんですから、「ちょっとワンちゃん、少し間他のお部屋で休んどいてくれないか」と、そんなことすら思いました。
結局それからは「チーン」と鳴らす度に吠えられながら、そのワンちゃんと一緒に最後までお勤めさせて頂きました。
 ご法事が終わり少しお話しさせて頂きました。そんな中1人の方が
「ごめんなさいねぇ、ずっと吠えてて、うるさかったでしょ。でもね、このこは亡くなったお父さんの命の恩人なんです。散歩中に近所の階段でお父さんが倒れた時、このコが吠え続けてくれたお陰で、それに気付いた近所の人が救急車を呼んでくれて、なんとか助かったんです。それも一回だけじゃないんです。だからお父さんはこのコを命の恩人だと言ってとても可愛がっていたんです。だから私たちもこのコには感謝してるんです。」とお話しして下さいました。
 「いやぁーワンちゃん、悪かったなぁ」と思いました。私にとっては正直少しうるさいなぁと思っていたこのワンちゃんの鳴き声は、遺された家族にとっては、お父さんの命を2度も救った大切な鳴き声でありました。だからどれほど吠えていようともここで一緒にお参りしたい。亡くなったお父さんに対するそのような想いが、そこにはあったんだなぁと気付かせて頂きました。
 人の想いというものは目には見えないものですから、気付こうと思わないと気付けない、それどころか気付こうと思っていてもなかなか気付くことが難しいものでございます。
 それは自分の都合や、今までの経験にとらわれて物事を見ておるからだって言うのです。
 我々のご本尊でおられます阿弥陀様の眼はよーく見て頂きますと、すこーし開いております。これは「慈眼」と言いまして、慈悲のまなざし、悟りのまなざしです。
 物事を自分の都合でしか見れず、苦しみ、悩む私の全てを知り尽くして下さった上で、「かならず救う」と仰って下さる如来様。
 ありのままに見れない私を、ちゃんと見て下さる阿弥陀如来という仏様がおられるという安心を頂き、さとりのまなざしは持ち合わせてはいないけれども、この眼をあてにせず、阿弥陀様のまなざしをよりどころに日々、生きさせて頂きたいと思う、今回のご縁でございました。



法話2
「信心」という言葉があります。様々な宗教がありますが「信心」という言葉を使わない宗教はないのではないでしょうか。
この言葉の意味を辞書で引きますと、「神仏を信仰して祈念すること。また、その心。信仰心。」とあります。
足しげく、お寺や神社、教会などにお参りに行かれるなど、宗教に対する信仰心が強い方などを「信心深い人」なんて言い方をします。
私達の浄土真宗本願寺派では、読経が終わりますと、八代目のご門主であります蓮如上人が書かれたお手紙である「御文章」を拝読します。
この御文章の中でも広く知られているものに「聖人一流章(しょうにんいちりゅうしょう)」があります。その冒頭には「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候」と記されており、親鸞聖人がお伝え下さった浄土真宗は、信心を根本とする教えでありますという意味です。
信心とは、信じる心と書きます。一般的には、私達の方から仏様や神様を信じる心と考えてしまいます。
私達の心のよりどころとなる仏様は阿弥陀様であります。したがって、私達が阿弥陀様を信じる心によって救われる、そのように受け止めてよいものでしょうか。
浄土真宗の信心は、私達が阿弥陀様を信じようと、自らの努力によって信じる信心ではありません。「必ず救う、まかせよ」という阿弥陀様の「本願力」によってめぐまれた信心であります。
「本願力」とは、阿弥陀様が法蔵菩薩であられたときに「あらゆる人々を平等にすくいたい」という願いにもとづくはたらきを言います。
この阿弥陀様の「本願力」を疑う心なく信じる心を「他力の信心」と言います。「他力」とは、他人の力や人任せという意味で使われる事がありますが、本来は阿弥陀様のはたらきの事です。
親鸞聖人は『高僧和讃』に

生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
と記され、阿弥陀様の「本願力」を「ふね」に例えられました。
阿弥陀様の弘誓の船に、「私が乗って」という表現ではありません。「私が乗って」であれば、私が阿弥陀様のおはたらきを信じる、つまり「自力の信心」ということになります。
「私を乗せて」必ずお浄土へ渡す、と記されていますので、自らの力でさとりに到ることができない私達を、そのままの姿で必ずお浄土へ渡してくださるという事です。これは、既に私達が阿弥陀様に抱かれているからこその表現であります。
つまり、阿弥陀様の弘誓の船に、「私を乗せて」いただき身を任せる、阿弥陀様の本願力を疑う心なく信じてすべてをお任せする、これが「他力の信心」という事です。
なぜ、阿弥陀様は本願を起こされたのでしょうか。それは、私達が煩悩だらけで、清らかな心などない、迷いの存在であったからです。私達に清らかな心があったとしたならば、阿弥陀様は「あらゆる人々を平等にすくいたい」という願いを起こされる必要はありません。
自らの力によって迷いの世界を離れることができず、さとりの世界にも到ることができない凡夫であるのが私達です。何としても仏のさとりに導きたいという阿弥陀様は、そのような私達を必ず救うと南無阿弥陀仏のお念仏となって、お浄土に生まれさせるその時まで、そのお功徳を常に私達へと向けられております。
私達は、そのおはたらきに気づき、感謝のお念仏を称えさせていただくことが大切であります。



浄土真宗本願寺派
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