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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和4年 9月 法話
法話1
 今月は、「お念珠」について話をさせていただきます。

 お念珠は仏前に礼拝するときに欠かせない大切な法具で、一般的には「珠数(数珠)」ともいわれています。形や用い方は宗派によって多少の違いがあり、数を数えたりするために用いることもあるようです。
 浄土真宗本願寺派では「念珠」といい、阿弥陀様をつつしんで敬い、合掌・礼拝するときの法具として用います。

 蓮如上人は、『御文章(二帖目第五通)』の中で、「お念珠を持たないのは、阿弥陀様を手づかみにするようなものです。親鸞聖人はお念珠を捨てて阿弥陀様を拝めとおっしゃったことはありません。」と述べられました。
 「お念珠を持たず素手で阿弥陀様を拝むのは、素手でご飯を食べるように不作法なもので、阿弥陀様を拝むのにお念珠を用いるのが、作法である」とお念珠を持つことをすすめてくださっています。



 「お念珠」には、たくさん種類があり、「珠の数は何個か?」「紐か房か?」「男性用?女性用?」等、悩まれることもあるようです。

 ●珠の数は、何個でなければならないと決まってはいません。百八・五十四・三十六・二十七・十八など様々で、珠の大きさによって違いがあります。珠が小さいほど、珠の数は多くなるでしょう。

 ●「男性は紐、女性は房」という決まりはありません。「男性用の珠は大きく、女性用の珠は小さい」ということもありません。
好きな珠・好きな紐(房)をお好みで選ばれていいと思います。私は、輪袈裟の色に合わせて、お念珠を選んでいます。



 また、すべての物は無常、永遠に紐が切れないことはないのに、「お念珠の紐が切れると不吉。」とよく聞きますし、言われます。
 しかし昔は、お念珠の紐が切れるのは良いことだったと、室町時代の伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)の日記に、お念珠が切れたことを「おめでたいしるしだ。」と書かれてあるそうです。
 使っているとお念珠の紐は必ず切れるものです。私は、自分でお念珠の紐を組むので、「紐が切れたら、次は何色の紐にしようかと楽しみにしています。」
 余談ですが、切れた場合は念珠店や仏具店で修理できますので、お店に相談してみてください。

 俗信というものは、時代によって変わるもので、あてになるような代物ではありません。そんな俗信にとらわれることなく、良き伝統を受け継いでいただきたいものです。
 その一つに、「嫁ぐ子に忘れず持たす数珠一つ」という言葉があるそうです。結婚の形も様変わりし、「嫁ぐ」と言い方自体、古いという印象を持たれるかもしれませんが、仏教徒として、婚礼の際にお念珠を持たせるというのは、有難く尊い伝統だと思います。



 「お念珠」は、阿弥陀様に礼拝するための大切な法具です。
 お経本などと同じように大切に扱い、畳や床の上など歩く所には直に置かないようにし、置く場合は何か敷き、その上に置くようにしてください。
  
 何度も申しますが、「お念珠」は阿弥陀様に礼拝するための大切な法具です。
お寺や各家庭でのご法要にお参りするときには、忘れないように。また、大切に扱うように心掛けていただきたいものです。
法話2
9月のオンライン法話のご縁をいただきお取次ぎさせて頂きます。
私達の浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。
「南無」とは、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「namas(ナマス)」からきており、「帰依する」つまり「全てをおまかせします」という意味でありますので、私達がお称えする「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様に全てをおまかせします。」という意味です。
さて、「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えする時、いったい、どこに向かってお念仏を称えるものでしょうか。

亡き方の遺影やお位牌に向かってでしょうか。
お仏壇にご安置している過去帳に向かってでしょうか。
お通夜やお葬式では、亡き方のご遺体に向かってでしょうか。
中陰中の七日ごとの法要であれば、ご遺骨に向かってでしょうか。

私達が「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える方向は、あくまでも、お仏壇などにご安置されている阿弥陀様、あるいは「南無阿弥陀仏」つまり六字名号のお軸に向かって、お念仏を称えます。

あらためて、合掌・礼拝のお作法をご説明いたしますと、合掌は、両手を胸の前に合わせて、指をそろえて約45度上方にのばし、お念珠をかけて親指で軽くおさえます。
そのまま肩・ひじをはらずに背筋を伸ばし、そして、ご本尊を仰いで「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。
そして、礼拝は、合掌したまま上体を約45度かたむけてお礼をし、上体をおこしてから合掌をときます。
この、合掌、お念仏、そして礼拝という一連のお作法は、全て阿弥陀様を仰ぎながら行います。

そのように申しあげますと、亡きお方をないがしろにしているように受け止められる方もいらっしゃるかも知れません。少し寂しいように感じてしまう、そのような方もいらっしゃるかも知れません。

しかしながら、私達の浄土真宗は、阿弥陀様の「われにまかせよ そのまま救う」という願いを聞かせていただき、そのおはたらきを素直にいただき、間違いなくお浄土に往生して、さとりの仏となることが定まるみ教えであります。亡き方は、いのちを終えるその時には間違いなく、阿弥陀様のお浄土に仏様としてお生まれになられております。
そうなりますと、遺骨や遺影などに対してお念仏を称えるということではなく、あくまでも、亡き方も後に遺された私達も、阿弥陀様に等しく摂め取られていることに対する「報恩感謝」のお念仏を称えるのです。
「報恩感謝」とは、私達を救わずにはいられない阿弥陀様と、仏様となられた亡き方のおはたらきのご恩に報い感謝させていただくことです。
そう申し上げましても、何か義務のようにお念仏を称えるのではなく、ただ救われたよろこびのなかでお念仏を称えることが、真の報恩感謝です。

大切な方の死のご縁があったからこそ、葬儀場やご自宅のお仏壇、あるいはお寺の本堂で、手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える事ができた、もしかすると、そのような方が多いのかもしれません。
阿弥陀様と亡き方のおはたらきによって、お念仏を称えさせていただく身にお育て下さっていることに気づき、「報恩感謝」のお念仏を申す毎日を、共に歩んでいただければと思います。



浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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