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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 3月 法話
法話1
ある方から次のような質問を受けました。
「あなたはなぜ仏教を信じることができるのですか」

これまで考えることがなかったテーマでした。私はお寺に生まれ、子ども会で仏様のお話しをずーと聞いてきたので、仏教が身近にあったし、そこに疑問をいだくようなことはありませんでした。

 仏教とは、お釈迦様が説かれた仏の教えであります。
浄土真宗とは阿弥陀如来が私を仏にする教えであります。

お釈迦さまは、2500年前のインドで、お城の王子様としてご誕生になりました。衣食住に財産・地位、すべてに恵まれた生活だったそうです。しかし、その中でも老・病・死の問題はいつも離れることがなかったそうです。衣食住に財産・地位を極めても解決することができない問題。それが「いのち」の問題でした。
この大問題を解決するため、お釈迦様は苦行の道を選ばれました。それでも解決することはできなかったそうです。
そして衣食住に財産・地位そして苦行とこれまで自分が頼りにしてきたものをすべて捨てて、菩提樹の下に座し、お悟りを開かれたと言われています。

「とらわれの心をはなれて しあわせに」

これは、年末の除夜の鐘でお配りした記念品の言葉です。この言葉の如く、「とらわれの心をはなれて しあわせに」なられたお方、それがお釈迦さまであります。

「とらわれの心をはなれて しあわせに」なられたお方・お釈迦さまが説かれた教えだからこそ、私はその教えを疑うことなく信じることができます。

そのお釈迦様が、喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、ひときわ輝かしいお顔で説かれたと経典が「佛説大無量壽経」です。この経典に、阿弥陀如来はこの私に一子のごとく思いをかけてくださっていることが説かれています。


阿弥陀如来が「安心して来い」と言われ、お釈迦様が「そのまま行け」と言われるこの道を、白道といわれる無碍の一道をこれからも歩まさせていただくだけです。



法話2
とても可愛がって貰った大好きな兄でした。 「長崎から横浜は遠いから、来なく
ていいよ」との言葉に甘えて、時々電話で状態を聞くだけの日々でした。
そんな兄が、家での生活が大変になり横浜の癌センターに入院したと聞いたので、
思い切ってお見舞いに出かけました。

兄には黙って行ったのですが、病院に着いてベッドに横たわっていた兄は、
別人のようにやせ細りびっくりしました。電話で10㌔痩せたと聞いていましたが、最早、私の知る元気な頃の兄の姿ではありませんでした。こんなに悪い状態になっていたとは、思いもしませんでした。

小さな声で呼びかけてみると、兄はぼんやりとした様子で静かに目を開けて、
じっと私のほうを見つめました。「保子よ、わかる?」と話しかけると、兄は驚いたような様子で頭を2,3度動かし、しばらくじっと私を見つめていました。

「きついねー、きついねー、よく頑張ってくれて有難う」と言うと「うん、うん」と頭をゆっくり動かしました。答える声が聞き取りにくいほど体力が無くなっているようでした。しばらく手をさすったりして、なんとなく見つめ合っていました。
法衣を持って行きましたので、法衣をまとい、こんな会話をしました。
「辛い時も、苦しい時も、阿弥陀さまがいつも一緒なんよ。お父さんやお母さんもいつも一緒よ」「うん、うん」「苦しいけれど南無阿弥陀仏と称えてね。やがて
お父さんやお母さんが待っていてくれる、いのちの故郷・お浄土に帰らせてもらうのよね。 私もやがて帰らせてもらうよ」と言うと、「うん、うん」と頷いて、
「夢のようだね」と嬉しそうに言いました。  本当に聞こえたら、喜びは自然とあらわれてくるものなのですね。 この言葉は忘れられません。
二日後、兄はお浄土へ帰っていきました。
  私もこのいのち終えた時、兄が言った言葉「夢のようだね」という、いのちのふるさと・お浄土へ帰らせていただきます。 「帰化穏座」という言葉があります。 旅行に行っても帰る処があるから旅は楽しいのです。帰る処がなければ旅行は楽しくありません。

誰のために、何のために、なぜ仏さまの願い・悲願は生まれたのか、それを聞き開いてゆくのが、人間に生まれて出させて頂いた意味があるのではないでしょうか。 
阿弥陀さまは、煩悩成就の凡夫、煩悩具足の凡夫、苦悩の有情と言われる、私たちを助けることができなければ、仏にはなりませんと誓われ、ながい、ながいご修行の末、その誓いが成就して 「南無阿弥陀仏」の ほとけさまとなって下さいました。

親鸞聖人は 『正像末和讃和讃』に  
「如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて  大悲心をば成就せり」 と。

また、『歎異抄』の中で 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」 ともおっしゃっておられます。

私のために仏さまの願いが生まれたと、聞かせて頂いたら、私の心が美しく整えられて喜ぶのではなく、私がどういう状態になろうとも、必ず救うとおっしゃる、阿弥陀さまの大悲の深さを喜ばせていただく。 そこに気づかせて頂かないと、喜ぼうと思っても喜べないことになるのではないでしょうか。 兄を通して仏さまのおこころを気づかせて頂いたことでありました。 

  『正信偈』の最後には 「唯可信欺高僧説」 「まさに如来如実のみことを信ずべし」 
仏さまの狂いのない、真実の言葉を聞かせていただきましょうということであります。
南無阿弥陀仏


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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