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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 4月 法話
法話1
光源寺オンライン法話へようこそお参り下さいました。どうか気を楽にして少しのお時間お付き合い頂ければと思います。

 京都の太秦というところに、中央仏教学院というところがございます。
 そこは、今から浄土真宗のお坊さんになる、という方や、浄土真宗を初歩から学びたい、という方が通われています。
 また学院生活では様々な年代の学友とともに、お掃除やお勤めなど、お寺の生活も経験することが出来ます。
 私はその中央仏教学院に大学を卒業して、そのまま1年間通わせて頂きました。
 そこでとても印象的だった先生のお言葉が2つ程ございます。
 今日はそのうちの一つをご紹介させて頂けたらと思います。

 それは学院の入学式にて、当時学院長を務めていらっしゃった白川先生のお言葉です。
一言一句ちゃんとは覚えてはいないのですが、たしかこのようなお言葉だったと思います。
「入学おめでとうございます。皆さんはこの中央仏教学院を愚か者になって卒業していくことになります。」と。
 とてもびっくりしたのを覚えています。
それまで小学校、中学校、高校、大学と通ってきましたが、そんな入学式の挨拶は聞いたことがありませんでしたから。学校は入学した時よりも立派になって、賢くなって卒業していくものだとばかり思っていたもんですから、「愚か者になって卒業していく」という言葉はとても印象的で、やっぱり仏教の学校はちょっと変わってるなと思ったのを今でも覚えております。

 浄土宗の開祖でいらっしゃいます法然上人は
「愚者となりて往生す」という言葉をのこされております。
 自分は愚かな存在であったと気付いて、お浄土へ往き生まれていくだと。
 仏教でいう「愚か」とは、知識がないとか、教養がないという意味ではございません。
 煩悩を抱えて生きる我々は、常に自分中心に物事見て、ありのままを見ることが出来ない。そういうことを愚かさと言います。
 また愚かとは「無明」とも言います。「明るく無い」という意味で、物事をありのままに見れない、それはまるで何も見えない暗闇のようだということです。

「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな」
親鸞聖人が晩年、正像末和讃に記されたお言葉です。
 煩悩にとらわれたこの身には、阿弥陀様のような智慧の眼は持ち合わせていないけれども、心配しなくてもいい、その愚かさに気付かされた時、そのありのままに見れない私を、片時も目を離さずちゃんと阿弥陀様が見護ってくださっております。
 その阿弥陀様にただただおまかせするばかりであるなぁと、学院長のお言葉を通して感じさせて頂く有難いご縁でございました。



法話2
2023年4月 オンライン法話 

4月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
お墓参りをする事が難しくなった、誰もお墓を管理できない状況となった、新たにお求めになられた納骨堂などにお骨を移動したいなど、そのような場合に「墓じまい」のお手伝いをさせていただく事があります。
「墓じまい」の際には、やむを得ず全てのお骨を土に還す場合もあれば、お墓からお骨を出し再火葬した後に、お骨を整理し、納めきれなかったお骨だけを土に還すなど様々です。
お骨を土に還すお手伝いをした時に、
「私達も死んだら火葬されてお骨となって、いずれ何十年か先には、どなたかが、こうやって土に還すことをしてくださるのかも知れませんね。」
お参りの方々とそのようなお話になりました。
お骨が土に還るには相当な時間がかかると思いますが、長年かけて微生物によって分解されお骨から土へ変わっていく。命が自然に帰っていくという事でしょうか。
土へ変わった命は、次の命を育むための養分となっていく。命は繋がっていくという事が言えると思います。

先日、ある研修で、講師の先生がこのようなお話をして下さいました。
中学3年生の方々に、火葬場に行ったことがありますかと尋ねたら、殆どの子が手を挙げたそうです。そして、ご遺体を窯に入れて火葬が終わってお骨を拾う事になりますが、ご遺体と出てきたお骨とどっちが重かったですかと尋ねたそうです。
単純に考えるとご遺体が重いという答えになりますが、中学2年生の理科で「質量保存の法則」を習います。化学変化が起こる前と起こった後の質量の重さは変わらないというものです。
火葬によって、ご遺体には化学変化が起こります。体の約70%は水分であり、水分は火葬されると水蒸気になります。熱エネルギーに変換されたり、二酸化炭素になったり、リンやメタンにもなります。
これらの物質は、火葬場の煙突から次の命を育むための原材料として大気中に還元され、循環され、そして、燃え残って目に見えるものがお骨と灰になるわけです。
火葬された私の身もどんどん循環していく。だから、私が亡くなっても、全体で考えたらエネルギーの合計は変わらない。意識の中では死んだら終わりかも知れませんが、全体で考えた場合に命が途切れるのかと言うと、別の話だと思いますとお話をされました。

お骨から土へ変わった命は、次の命を育むための養分となり、また、火葬による化学変化によって生まれた物質は大気中に放たれ、次の命へと繋がっていく。命の繋がりは連続して途切れないということが言えると思います。

親鸞聖人は『教行信証』に、道綽禅師の『安楽集』の言葉を引用され、

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん人は前を訪え、連続無窮にして、願わくは  休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり

と記されました。
前にお浄土に生まれた方は、後に生きる人をお念仏の道へと導き、後の世に生きる人は、前にお浄土に生まれた方にみ教えを尋ねていき、連続して途切れないようにしましょう。なぜならば、数限りない迷いの人々が一人残らず救われるためです、という意味です。

死を迎え、火葬されると目に見えて残るものはお骨と灰だけかも知れませんが、土に還ったり、他の物質に変わり、次の命へと繋がっていく。
この命の繋がりと同じように、仏様となられた大切な方との繋がりのなかで、私達は、「南無阿弥陀仏」というお念仏に出遇うことができるのではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、「全ての生きとし生けるものを必ず救いたい、まかせよ。」という阿弥陀様のよび声です。
やがて私達も死を迎え、身体は火葬され別の物質へと変化し、次の命に循環していくように、阿弥陀様のおはたらきによってお浄土へ還らせて頂き、仏として生まれさせて頂くだけではなく、娑婆世界に戻って次の世代を生きるご縁の方々を、お念仏の道に導いていく。これも、命の繋がりということが言えるのではないでしょうか。
大切な方のお骨となった姿は大変厳しいものでありますが、その厳しい姿は私達の将来の姿であるという事に気付かさせて頂き、命の繋がりのなかで賜った命を精一杯歩みながら、お念仏申す毎日を過ごしたいものであります。


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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