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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 7月 法話
法話1
2023年7月 オンライン法話 

7月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
先日、ご門徒さんから、
「最近、周囲で亡くなる方が多くなりました。私もそのような年齢に近づいてきて、死ぬのが怖いです。あなたは、お坊さんだから死ぬのは怖くないですよね。」
このような質問を受けました。
「怖いというよりは、どうする事もできないと思っています。」
死から逃れる事はできない、だから、どうする事もできないという意味でお答えしたものの、何か、引っ掛かりを感じてしまいました。
私は、皆さんの前で、
「間違いのない阿弥陀様のおはたらきに包まれ、お念仏を頂き称え、よろこばさせて頂き、共に、お浄土への道を歩ませていただきましょう。」
そのようなお話をしているにも関わらず、心のどこかで、死に対する怖さを感じているがために「怖い」という表現を避けてしまったようです。
私自身が、どのような形で死を迎えるのか。
病気で痛みに苦しみながら死ぬのは嫌だなあと思いながらも、明日にでも突然、死を迎えるのも嫌です。「できる限り生きたい。」と思っているのが私の本心のようです。
この、ご門徒さんのご質問は、私自身に対して強い問いかけになりました。

この世の縁が尽きても、悩みや苦しみを超えた世界であるお浄土に生まれる事ができるのであれば、それは、今、この瞬間でも大丈夫ですか?と問われたならば、まだ、生きていたいと思っているのが私の本心です。
そもそも、私自身の日常生活を振り返ってみた場合、体調が悪ければ病院に行きますし、時には健康診断の受診も考えます。体調を整えるために食生活にも気を配り、また、不慮の事故などを起こさぬように注意しているつもりです。
これらは、無意識のうちに「できる限り生きたい。」という思いがあるからこその行いではないでしょうか。

「できる限り生きたい。」を言い換えますと「死にたくない。」です。人として生まれたからには必ず死んでいくにも関わらず「死にたくない。」という気持ちは、なぜから湧き上がってくるのか、たどり着いたのは『歎異抄』というお聖教でした。

『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子さんである唯円房の著作とされており、唯円房が親鸞聖人から直接聞いた言葉が記されております。
この中に、唯円房が親鸞聖人にお尋ねしたことが記されています。
「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また、少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうか。」とお尋ねされています。
それに対して「この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。」と同調され、そして「浄土にはやく往生したいという心がおこらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです。」と仰いました。
「煩悩」とは私達を煩わせ、悩ませ、苦しめるものを言い、自分の思い通りにしたいという欲望によって起こるものです。

『歎異抄』の中に、ご門徒さんのご質問に対する答えがあって安心したと同時に、その場を取繕うような答えしかできなかった事に対して恥ずかしさを感じました。

「死」というものは、あまり向き合いたくない事ではありますが、「死」というものがご縁となって、仏法に出遇い、命の本当の姿に気付かさせて頂く事ができるのではないでしょうか。
親鸞聖人のお答えによって、私自身、煩悩だらけだからこそ「死にたくない。」という思いがあること、そして、生きたいという思いを満たすために、多くの命の支えがある事に気付きました。
しかし、煩悩だらけだからと言って、欲望のままに生きていいという事ではなく、そのような私にとっての唯一の救いは、阿弥陀様の「かならず救う」という本願しかない事に気付かさせて頂いた尊いご縁でした。



法話2
お盆やお彼岸になりますと全国各地では、お墓参りの光景が見られます。

 さきにお浄土に往き、仏として生まれられた故人を偲び、常にはたらき・喚びかけてくださる阿弥陀様の願いを聞かせていただく場所が「お墓」です。
 「墓(ぼ)相(そう)が悪いと先祖が苦しむ・祟る、悪いことが起こる」等と心配する方や、墓の向き・形、建てる日取りを気にする方もいますが、まったくの迷信で気にする事はありません。
 仏縁に遇わせていただく「お墓」で、迷信に悩み・迷ったりするのは、悲しいことです。

 そこで、今月は「お墓」について話をさせていただきます。



 お釈迦さまがお亡くなりになられた時、そのご遺骨・仏舎利は塔を建てて大切に保管されました。この塔を仏舎利塔といい、ここで人々は、お釈迦さまのお徳を偲び、仏法に出遇いました。この仏舎利塔が、仏教における「お墓」のありようがうかがわれます。

 また、親鸞聖人のお墓については、『御伝鈔(ごでんしょう)』に「文永(ぶんえい)九(く)年(ねん)(1272)冬(ふゆ)のころ、東山(ひがしやま)西(にし)の麓(ふもと)、鳥辺野(とりべの)の北(きた)、大谷(おおたに)の墳墓(ふんぼ)をあらためて、おなじき麓(ふもと)よりなほ西(にし)、吉水(よしみず)の北(きた)の辺(ほとり)に遺骨(いこつ)を掘(ほ)り渡(わた)して仏閣(ぶっかく)を立(た)て、影像(えいぞう)を安(あん)ず」と記されています。
 この仏閣は、各地から多くの人が参詣し、聖人のみ教えを受け継がれていき、後(のち)に本願寺へとなっていきます。



 このように「お墓」とは、敬いの心から碑を建てて遺骨を大切に保管する場所であり、故人の居場所ではありません。

 浄土真宗は、阿弥陀様のおはたらきによってお浄土に往き・仏として生まれ、阿弥陀様と同体のさとりをいただく教えです。
 さきにお浄土に往き、仏として生まれられた故人を偲び、「あなたもお浄土に仏として生まれるのですよ」と喚びかけてくださる阿弥陀様の願いを聞かせていただく場所、それが「お墓」なのです。

 故人や墓石を拝むのではなく、仏縁をいただくという意味からも墓碑正面に刻む文字は、「○○家之墓」や「愛」「感謝」など好きな言葉ではなく、「南無阿弥陀仏」「倶会一処」などの仏語・法語がいいでしょう。



 これから、お盆・秋彼岸とお墓参りの季節になります。 
さき立たれた方々を偲び、家族そろって墓前にお参りされることは、ありがたい光景です。  
 「ほってはおかない」と立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様のみ教えに遇わせていただき、さき立たれた方々はお浄土へ仏様として生まれられ、阿弥陀様と同じように立ち上がって「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ、いつでも・どこでも私たちのところに来て下さっておられる事に気付かされ、私たちもお浄土へ往き・仏様として生まれる身であることを喜ばせていただく、仏縁に遇わせていただく場所としての「お墓」であっていただきたいものです。



浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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