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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 9月 法話
法話1
2023年9月 オンライン法話 

9月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
先日、研修のために京都に行きました。研修が終わった翌日の移動日の事ですが、伊丹空港行きのバスの出発時間まで、少し京都市内を散策しようと思っていました。
しかし、研修の疲れが溜まっていて、朝なかなか起き上がることができず、京都市内の最高気温予想が39度、熱中症警戒アラートも発令されており、無理はできないと思いまして、私達の浄土真宗本願寺派の本山である本願寺、そして、宗祖親鸞聖人のお墓がある大谷本廟の2箇所だけ行くことにしました。
まず、バスに乗って大谷本廟に向かいました。大谷本廟への参拝はお得度(僧侶になること)以来、約10年ぶりのことでした。その後、本願寺に向かいました。
本願寺方面へのバスは定刻どおりに到着し、乗車しました。
10分位経った頃、運転手さんが、このような車内アナウンスをされました。
「このバスは、渋滞のため15分遅れで運行しております。ご迷惑をかけて申し訳ありません。」
このアナウンスを聞いて、何か違和感を覚えたので、冷静になって考えてみました。
定刻どおりに到着したと思って飛び乗ったバスは、実は15分遅れで到着し、本願寺方面とは全く別方向に向かっているバスだったのです。
あまりの暑さにボーっとしており、早く冷房の効いた車内に入りたいという思いから、バスの方向幕を確認することなく飛び乗ってしまったがための失敗でした。
土地勘もありません。いったいどこにバスが向かっているのかも全く分からず、すぐにスマートフォンで現在地を確認し、運転手さんに本願寺方面への行き方を教えてもらい、バスを降りました。
一旦は、本願寺への参拝を諦めようと思いましたが、降りたバス停から15分後に本願寺方面のバスが出発することが分かり、また、今後しばらく本願寺参拝の機会がないと思い、本願寺方面のバスに乗りました。
本願寺の滞在時間は10分位。猛暑で汗だくになりながら阿弥陀堂と御影堂に駆け込んで参拝し、バタバタしながら、どうにか、伊丹空港行きのバスに間に合うことができました。
スマートフォンがなかったら、今どこに居て、どこに向かっているのか分からずに、不安で一杯になっていたと思います。

私達の人生においても、この先、命はどうなっていくのか、いったいどこに向かっていくのか、その問題が解決しないと不安で悩み苦しむのではないでしょうか。
そして、死んだらどうなるのか、どのような世界に生まれ往くのか、誰もが経験をしたことがない事であり、不安を覚えない人はいないと思います。

私達が日頃からお勤めさせていただいております『正信偈』の中には、
『憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩』
と記されています。

「まかせよ、必ず救う」という阿弥陀様の願いを疑いなく受け入れた時に、正しく仏になることが決まって、この世の縁が尽きた時には、必ず、阿弥陀様が作られたお浄土に生まれ往くことができるのです。
そして、お浄土に生まれ往くことが決まったのであれば、あとは、「南無阿弥陀仏」と感謝のお念仏を称えさせていただくだけであります。
阿弥陀様が、私達の命の往く先をお示し下さり、どこに向かっていいのか分からなくなっても、いつも一緒に歩んで下さっていることに感謝しながら、毎日を歩んでいきたいものであります。



法話2
今月は「お彼岸」について話をさせていただきます。

 一年のうち、昼と夜の長さが同じになる日が二回あります。春分の日と秋分の日です。この日を中心に前後三日ずつ合わせて一週間、全国各地のお寺では「彼岸会」という法要を勤めます。
 「お彼岸」という言葉は、私たち日本人の生活の中では、なじみの深い仏教用語ではないでしょうか?




 「お彼岸」になりますと全国各地では、お墓参りの光景が見られます。

 「お彼岸」のお墓参りは、江戸時代になってから一般の人々に広がったそうですが、仏教修行の期間としては平成時代から約千年の長い伝統をもっています。
しかし、仏教の起こったインドや中国では行われておらず、日本の風土や気候が生み出した日本独自の仏教行事です。
 前回、「お墓」について話をさせていただきましたが、「お墓」とは、さきにお浄土に往き、仏として生まれられた故人を偲び、常にはたらき・喚びかけてくださる阿弥陀様の願いを聞かせていただく場所です。

 「お彼岸」を墓参り・墓掃除する期間と思っておられないでしょうか? そのように思っているとしたら間違いです。




 そもそも「彼岸」とは、仏様のおいでになる彼方の岸、お浄土(さとりの世界)を表す言葉です。
仏様の世界が彼方の岸、彼岸であるのに対して、私たちのこの苦悩の世界(迷いの世界)は、此方の岸、此岸と言います。
 「お彼岸」とか「彼岸会」という場合の「彼岸」とは、「到彼岸(彼方の岸に到る)」の略であり、苦悩の世界(迷いの世界)から、さとりの世界であるお浄土へ到るという意味です。

 浄土真宗では、さとりに到るための修行としてお念仏申すのではなく、日々の生活の中でのお念仏の味わいこそが大切です。
 そして、「彼岸会」の法要を苦悩・迷いの世界で どうすることも出来ない私たちをほってはおけないと立ち上がって、さとりの世界であるお浄土へ到らしめ下さる阿弥陀様のお徳を讃え、そのおこころを聴聞させていただく仏縁として大切にしています。
 お念仏のみ教えに生かされている私たちは、常に聴聞に励みたいものです。




 「お彼岸」を単なる墓参り・墓掃除する期間にとどめるのではなく、過ごしやすい気候のこのときに、彼方の岸におられる阿弥陀様をおもい、お念仏のみ教えを通し、先立たれた方々を偲び、その方々が往かれたお浄土を想い、お浄土で仏様としてお生まれになられている事を聞き、私たちも阿弥陀様にいだかれて、お浄土に仏様としてまいらせていただく身であったとお念仏申し、よろこばせていただきたいものです。






浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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