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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年10月 法話
法話1
皆さんに、質問です。
昨夜、何を食べたが覚えていますか?
私自身。急にそのように問われると、しばらく考え込まないと答えられません。そのとき、美味しく食べたことは間違いないのだけども、一体何を食べたっけ?・・・・どうしても思いだすことができず、冷蔵庫の中を見て、昨夜の残り物を見てようやく思い出す始末です。
食べ物のことだけではありません。俳優さんの名前。昨日の出来事、聞いた話。昔はすぐに思い出していたことも、だんだんと思い出すのに時間がかかるようになりました。


さて、今から五百年も前の話です。
本願寺8代蓮如上人は「仏様のお話を聞かせていただき、その場では有り難く尊いものであると思っていても、何日か経つと、まるで籠からすくった水がぼたぼた落ちるかのように、仏法の有り難さも忘れて、元の状態に戻ってしまいます。どうすればいいのでしょうか。」と問われたそうです。
その問いに対して、蓮如上人は「そのかごを水につけて、我が身を仏法に浸しておきなさい」とお答えになりました。つまり、籠に水を入れようとするのではなく、籠自体を水に浸しておくかのように、自分自身を常に仏法に浸しておけばいいとお示しくださいました。

自分自身を振り返ってみると、日常の忙しい日々に追われ、目の前のことで精いっぱいの毎日。目の前の精いっぱいやったことさえも、籠の水がおちるように、気が付けば何も残っていないように思えることもあります。

だからこそ、自分自身を常に仏法に浸しておかなければならない。光源寺では毎週日曜日朝10時~11時までの一時間。日曜礼拝をお勤めしています。30分の読経・30分の法話。だれでもお参りでき、今年で50年を迎えます。この1時間は、私自身が仏法に浸る時間でもあります。しかし、11時からはすぐにご法事が入っており、常に仏法に浸しておくというのもなかなか難しいものです。

阿弥陀如来様のお慈悲は、そんな私をすくいとって決して捨てないというお心でありました。
この私が阿弥陀さまのお慈悲をすくいとろうとするから、籠の隙間が問題になるようです。
阿弥陀さまが決して漏らさぬそのお慈悲で、隙間だらけのこの私をすくいとってくださいます。私はいつでもどこでも阿弥陀さまのお慈悲の中に歩ませていただいていたのでした。
そうするとこの私という籠の隙間が全く問題ではなくなってしまいます。


 今年で50年を迎える光源寺の日曜礼拝。お寺での法座はこの私自身が常に仏法に浸かっていることをいただく尊い仏縁だといただいています。

煩悩にまなこさへられて
  摂取(せっしゅ)の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 

法話2
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
 名号のおいわれを聞いて、信じ念仏する衆生をご覧になり、光明の中に摂取して必ずお浄土に生まれさせ、仏にして下さる如来さまを、阿弥陀仏とお呼び申し上げるのです、と親鸞聖人はおっしゃいます。
親鸞聖人が教えて下さっているのは、「今、安心して生きていく事ができる」であります。もっと先にいい事があるのでなく、今のこの私が、私のまま生きていく事ができ、今、そのままで全面的に肯定される。 それが「摂取不捨」という事であります。
『歎異抄』の第一条に、「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」とございます。

赤ちゃんは一人では生きられません。「大丈夫!」と言って、抱き取って下さる親がいれば、大安心です。でも、私たちが言う、大丈夫!は当てになりません。 こちらの条件次第でコロコロ変わります。私中心ですから・・・・ 安心してまかせられる大丈夫!は、『われにまかせよ 必ず救う』の阿弥陀さま!!
苦しかったら南無阿弥陀仏。悲しかったら南無阿弥陀仏。辛かったら南無阿弥陀仏。また、嬉しい時も南無阿弥陀仏であります。

長寿社会となり、人生の最後は、病院や、施設で過ごす事が多くなりました。今、私が大切にしているものは、私の心の支え、拠り所となるものでしょうか。
知り合いの高齢の方が、癌で入院されました。 奥様は若い時からお仏法にご縁がありましたが、ご主人はそれまで仏法にご縁がありませんでした。 ある日、奥様が病院に行くと、ご主人が「何と言えば良いのか?」と尋ねられたそうです。それで奥様は「南無阿弥陀仏ですよ」と、答えられたそうであります。

別の日、奥様が病院に行った時、主治医の先生から、「消灯後の巡回の時、ご主人はいつも南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とお念仏していますよ」と、教えて下さったそうです。
♪「老患の 抑えた声のお念仏 かすかに聞こゆ 消灯時間」 というどなたかの歌がありました。 
病院の消灯時間、ベッドの中、小さな声で「ナンマンダブ、ナンマンダブツ」と、お念仏を一人称え、一人聞き、一人喜んでいたのでしょうか。お念仏に救われ、仏さまと共にある幸せを喜びながら、人生の最後を過ごしておられたのかもしれません。
阿弥陀さまは、ナンマンダブの声となり、「ここに居る。ここに居る。ひとりではない。ここに居る」と、呼びづめに呼んでくださっています。だから「南無阿弥陀仏」とお返事させて頂きます。
   ♪「喚びつ 呼ばれつ 南無阿弥陀仏」 
   ♪「どことても弥陀の懐 あたたかきかな」であります。
 「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまのお名前。信ずることも如来さまのご回向。 称えることも如来さまのお慈悲。「南無阿弥陀仏」と聞こえたまんまが、阿弥陀さまの親心であります。
私の口から「南無阿弥陀仏」と出て下さるまでに、どれほどのお呼びかけを頂いていることでしょう。    南無阿弥陀仏


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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