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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和5年 12月 法話
法話1
ある方がこんなお話を聞かせてくださいました。
「私は4歳で両親を亡くし、引き取ってくれた養父母も、私が10歳代の時に亡くなりました。それからの苦労は「ただ毎日をいかに生きるか!」だけでした。 
看護師の資格をとって働いたものの、職場での人間関係に悩みました。悩みを相談する人もなく、人のアドバイスを聞いても誰の言っているのが正しいか、何が正しいのか基準が全くわからず、判断することが出来ませんでした。
これまで親に相談するという経験もなく、親からこうした方がいいとか、ああした方がいいという言葉も聞いたことがありませんでした。 だから人が「母は小さい頃、こんなことを言っていた」と聞くと、羨ましくてしかたがありませんでした。 『真実ってなんなの?』と真剣に悩みました。
結婚すると姑や小姑にも苦労しました。 することなすこと総てを否定され、夫はアル中で暴力をふるい、断酒会にも行きましたが治らず、私の顔は傷だらけで、人に言えるような状況でありませんでした。  病院でカウンセリングを受けても、ちっとも心は癒されませんでした。 姑や夫が亡くなり、お寺にご縁を頂きました。
お寺にご縁を頂いても、何が何やらわからず、他の人は何でも分かっていて、私だけ何も知らない、と思って隅で小さくなっていました。 どうしていいか分からないので、広告の裏紙に、毎日毎日『正信偈』を書いて仏壇にあげていました。

お茶のみ法座に参加しても、今まで自分の事をお話ししたこともなく、誰にも言えませんでした。 人に言っても変に思われるだけだから、今日こうして残ってお話ししたのが初めてです。 お話することが出来て本当に楽になりました。

おかげで、最近はすべての事に感謝でき、朝、目が覚めると“ありがとう” 早朝見えるお月様、お星さまに手を振って“有難う” 出かける時は、いってきます! 家に帰ると、ただいま!と言います。 夜空のお月様、お星さまに手を振ります。
今は、人さまが言われることも全部何か私に教えてくれている、と思えるようになりました。 どんな人にも教えられます。 おかげで両親の顔も知らなったのに、従弟が両親の写真が見つかったと言って、初めて両親の顔を見ることが出来ました。
今思うと私は親を探していたのだと思います。
これまでの自分は、とにかく耐えるしかない人生でした。70才過ぎた今でも、何も知らない自分に落ち込むことが多いです。 子どもが小さい時など、夫の暴力や、姑のいじめに耐えられず、おむつを懐に抱えて家出をし、お金がないので駅員さんに知り合いのいる駅まで乗せて貰えないでしょうか、その駅で知り合いからお金を借りて返しますから、と一生懸命お願いしたけれど、乗せて貰えず家にまた帰り、耐えるしかなかったこともあります。  
しかし今は、姑がきつく当たったのも、早く戦争で夫を亡くし息子に当たるしかなかったのだろう、夫の暴力も私にしか当たる人がなかったのだろうと思えるようになりました。 仏法に遇えて本当に良かった!」と。

彼女は76才でご往生なさいました。 喪主になる若いご夫婦と子供さんの姿がありました。 喪主は彼女が結婚生活に耐えきない時、赤ちゃんを抱っこして家出しようと駅まで行き、お金がないので乗せてもらえなかった時のあの赤ちゃんでした。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり   南無阿弥陀仏



法話2
今年も残り少なくなりました。
年末の一大イベントといえば、大掃除。
これから少しずつ、日頃掃除の手が届かなかった所を掃除していきます。
光源寺は11月に4大法要を行いました。この法要を迎える準備として本堂の畳替えを行いました。また、内陣と欄間のクリーニングも行いました。
おかげさまで、平成3年の本堂大改修以来となる手入れが行き届いた本堂で大法要を勤めることができました。
それでも、目を凝らすとあそこに、ここにと塵やほこりが目につきます。やはり今年も大掃除はしないといけないようです。
仏教に「ほうきの教え」という話があります。耳にされたことがある人もいるかもしれません。お釈迦様のお弟子である周利槃特は「塵を払い、垢を除かん」と毎日掃除を行い、何年も続けるうちについに悟りを開かれたという話です。
塵と垢は気が付かないうちに積もっていくものです。見える塵と垢は掃除をすることができますが、見えない塵と垢は気づくことすら難しいようです。私の心に知らず知らずのうちに積もる塵と垢。それを煩悩といいます。
さて、光源寺の内陣も塵と垢をふるい落とし、お内陣の金色の輝きが一段と増しました。
夕方、沈む夕日が本堂に入り込むと、お内陣がなんともいえない輝きを放ちます。お浄土は無量光明土とも言われます。お内陣の金色はまさにお浄土の光を形として表したものです。
この「光」について次のような話を聞いたことがあります。
「光は一度光ったら決して消えることがない。まっすぐにどこまでも走り続ける」と
はじめ耳にした時、一瞬戸惑いました。
電気の光はスイッチを切れば消えるし、蝋燭の火も吹き消さば簡単に消えます。
しかし、よくよく考えてみると、そうではありませんでした。
例えば、夜空に見える星の光。これは何十万年もかけて地球へ届いた光を、今、私の目がみているそうです。
何十年も前に一度光った光が、決して消えることなく私の元まで真っすぐに届いていたのでした。光は私に届くまで、ずーと消えることなく光続けていたのでした。
阿弥陀如来のお慈悲は、「慈光」とも言われます。お浄土は無量光明土。阿弥陀さまのお慈悲は常に光続けておられる。その光は私のもとへ届くまで真っすぐに走り続けてくださいます。その光が煩悩だらけの私を包み込んでくださいます。
それが南無阿弥陀仏のお念仏様でありました。
「塵を払い、垢を除かん」
キレイにしたくても、完全には払い・除くことができないこの私を、そのまま包み込んでくださる阿弥陀如来様のお慈悲をいただきながら新年を迎えたいものです。
南無阿弥陀仏


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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