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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和6年 4月 法話
法話1
♪むかしも むかし 三千年 花咲におう春八日・・・ 四月八日はお釈迦さまがお生まれになった・誕生日・花まつりです。4月4日には光源寺の本堂で、長崎市内各宗派の僧侶が集い、花まつり慶讃法要をお勤めいたします。また、長崎の町では花車が走り、町の角かどに花御堂が安置され、道行く人々に甘茶をかけていただいています。どうぞご縁のある方は甘茶をかけて南無阿弥陀仏とお念仏申してください。
お釈迦さまはお生まれになると、七歩歩かれたと語り伝えられています。このお話は、お釈迦様は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を超えられたと味わっていきます。地獄といっても遠くにあるのではなく、いろんな地獄があります。お味わいの一つとして、「地獄はないけれども造ってはいけない、造るといくらでもできていく世界が地獄である」、という言葉があります。私が心で思っていること、口で言っていること、体で行っていること、どの一つをとってみても、時には良いことをしていることがあるような気がしますが、それでも結局地獄行きの業を積み重ねているようです。その業を超えていく道が佛道だとお説きくださいました。
さて、この冬は暖冬だったとはいえ、やはり暖房器具は欠かせませんでした。ストーブ・エアコン・ヒーター・ホットカーペット。中でもうちの子供たちが一番喜んだのがコタツでした。一度入ってしまうとなかなか出ることができません。「私はコタツムリ。ここが私の居場所です。だからこのままコタツで眠りたい」と言うことが度々ありました。「コタツムリ」とはよく考えたものです。
こういう言葉を思い出しました。「かたつむり どこで死んでも 我が家かな」確かにカタツムリはいつも殻を背負って生活しています。私たちは、どういう殻を背負ってこの人生を歩んでいるのでしょうか?
 親鸞聖人は「地獄は一条、すみかぞかし・・」と、お味わいになっておられます。
煩悩という殻で包まれて、抜け出すことができないようなこの私。どうぞ、そういう私を目当てとして阿弥陀さまがご本願をおたてになり、南無阿弥陀仏というお念仏をご回向くださっている、ということをお味わいいただければと念じます。
「南無阿弥陀 どこで死んでも 弥陀のふところ」
といただき、この道を歩んでいきたいものです。
合掌



法話2
2024年4月 オンライン法話 

4月のオンライン法要のご縁をいただきお取り次ぎさせていただきます。
不安な2024年が始まって早くも3ヶ月が過ぎました。
元日に発生した「令和6年能登半島地震」では、最大震度7の激しい揺れによって大きな被害が発生しました。3月1日付け国土交通省の発表では、241人の方々がお亡くなりになられ、重傷者は320人、未だに安否がわからない方もいらっしゃいます。
また、災害による負傷が悪化し、避難生活で体調を崩し亡くなってしまう「災害関連死」も起きています。生活環境を整え、必要な物資や医療を提供できるよう支援を強化する必要があります。
長引く避難生活によって疲労がたまり体調を崩す方、財産や仕事を失われた方、本当に想像を絶するような不安感に苛まれている方ばかりではないかと思います。
このような大きな自然災害によって多くの命が失われ、そして、当たり前と思っていた日常生活を失ってしまった時に、人間の無力さを痛感させられます。
被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

さて、私達の長崎県ですが、比較的地震が少ない地域であるように思います。しかし、政府が都道府県ごとの地震活動をまとめたものをホームページに掲載しており、過去には長崎県でも大きな地震が発生していることがわかります。1700年の壱岐・対馬付近の地震、1792年の島原半島の地震、1922年の島原地震などがあるようです。
また、島原湾から島原半島を経て橘湾にかけての雲仙断層群の一部については、政府が示す地震発生確率で「30年以内に3%以上」と危険度が最も高いSクラスに分類されていることから、今回の能登半島地震を、決して他人事とは思わずに、日頃から防災意識を高めながら、必要な備えについて改めて確認しておく事が大切です

大きな自然災害が発生した後に、多くのご遺体が遺体安置所に運び込まれ、厳しく変わり果てたお姿とのご対面の様子がテレビで映し出されることがあります。
命を落とすこととなったその瞬間、どのような状況にあったのか。厳しい表情のままで見つかったご遺体も多くいらっしゃったのではないかと思います。そのようなお姿を見ることになったご家族のお気持ちは想像を絶するものです。
あまりの惨状に「神も仏もない。」と口にされた方もおられました。そのような方々に対して「辛かったですね。」とお声掛けすることは、かえって心を傷つけてしまうように感じます。命終えていく時の様子は様々であって、それぞれ悲しく辛いものです。
「死」を受け止めていくためには、ゆっくりとした時間が必要になると思います。

親鸞聖人が八十八歳の頃、全国的な大飢饉と疫病におそわれ、死者が多くでたそうです。
その頃、親交のあった方に対して書かれたお手紙のなかに、このようなお言葉が記されています。

まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり

わたし自身としては、どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません。信心が定まった人は、本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっているのです、と記されています。

信心が定まった人とは、阿弥陀様の「まかせよ。必ず救う。」という願いを疑う心なく受け入れた人です。信心が定まり、正定聚という仏になることが定まった仲間に入ることで、生きる方向も定まっていくことから、臨終の善し悪しは問題にならないのです。何よりも、普段から無常の道理に気づく事が大切なのです。

お釈迦様が説かれた教えで、命あるものは必ず死ぬという「無常」。大切な方を亡くされたご家族やご縁の方にとって、この「無常」を受け入れることは、時間がかかることなのかも知れません。どのような命の終え方になるのかわからない、大切な命と引き換えに命の無常を伝えて下さっているのが、仏様となられた亡きお方であります。
そのような命を歩んでいる事に気付きながら、阿弥陀様のおはたらきに感謝し、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申させて頂くことが大切ではないでしょうか。





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