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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和3年 10月 法話
法話1
今月は、「偲ぶ」ということについて話をさせていただきます。

 年忌法要・月忌法要等をお勤めしながら、決まり文句のように「故人を偲ぶ」と言われます。
故人ありし頃を思い出してみる・共に過ごした日々を思い返してみる中に、いろんな事があったのではないでしょうか?
 良いことばかりではなかったでしょう。悪いことの方が多かったかも知れませんが、いろんな時を共に過ごし・共に歩んできたからこその今・自分があると、気付かせていただく事が多々あると思います。

 偲ぶ事は大切ですが、偲ぶにあたって大きく二通りに分かれるのではないでしょうか?
ひとつには、[ 自分を中心として、故人を偲ぶ ] 。もうひとつには、[ 故人を中心として、故人を偲ぶ ] ということです。
[ 自分を中心として、故人を偲ぶ ] か [ 故人を中心として、故人を偲ぶ ] かでは大きな違いが生まれます。
 結論から言いますと、故人を偲ぶわけですから [ 故人を中心として、故人を偲ぶ ] べきです。



 しかし、私たちは日常生活の中、自分を中心に物事を捉え・考え、行動をしていることがほとんどです。その流れで [ 自分を中心として、故人を偲ぶ ] に、なりがちです。

●[ 自分を中心として、故人を偲ぶ ] と、自分が故人の為に何をしてきたか・何ができなかったかということに目が向いてしまいます。
 「ああしてあげた。こうしてあげた。あの時、ああした・こうした…」と自分が故人にしてきたことを思い出すのは、なんとなく恩着せがましくなりますし、人間恩着せがましくなると見返りを求めがちになります。そうすると、「私は、あれだけの事をしてあげたのに、あの人は何もしてくれなかった…」と愚痴っぽくなったりします。
 また、できなかった事をおもうと「なんで私はしてあげなかったのだろうか」と自分を責めがちになり、「何もしてやれんで、ごめんね…」と故人に謝るお勤まりになってしまいます。

 故人を偲ぶのに、恩着せがましくなったり・愚痴っぽくなったり・謝る事より、大切なことを見ていくべきです。



 年忌法要。「忌」という漢字を使っています。この漢字を見ると「忌み嫌う」と思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、年忌法要の「忌」は、そのような意味ではありません。

『大漢和辞典』には、「①いむ。②いみ。③つつしむ。④いましめ。⑤うらむ。⑥おもひ。」などの意味で掲載されています。
 年忌法要の「忌」は、「③つつしむ。」の意味であり、『大漢和辞典』の使用例には、「忌、敬也(き、うやまうなり)」とあります。故人に対する敬いのこころから、自分の事(娯楽・遊興)をつつしみ、精進していくことであります。

 ですから、 [ 故人を中心として、故人を偲ぶ ] が大事です。



●[ 故人を中心として、故人を偲ぶ ]と、故人が自分の為に何をして下さったか・何を示し・伝え・教えて下さったかということに目が向くようになります。

「あの時、ああ言って下さった・こうして下さった…」等と故人が自分にして下さったことを思い返し、故人がいて下さったからこそ、いろんな時を共に過ごし・共に歩んできたからこその今がある・今の自分があると、有り難かった・おかげ様でしたと感謝する想いに気付かせていただけます。

 それだけではなく、故人はその人生を通し、多くの生命に出遇い・つながり・つつまれ支えられて過ごしてきたことを示し、そのような人生も必ず死に別れていかなければならない無常の身の上であり、死して終わりではなく、「ほってはおかない」と立ち上がり「南無阿弥陀仏」とはたらきかけ下さる阿弥陀様のおはたらきによって浄土へ仏様として往き生まれる身であることお伝え下さり、「何気なく過ごしている日々こそ、尊く・恵まれている有り難い日々である。だからこそ、日々を大切に見つめ・過ごしていかなければならない。大切に過ごしてくれよ。」とお教え下さっています。

 「偲ぶ」ご縁を、故人を通して自らの姿を考え、「おかげ様の日々でありました。仏様として往き生まれる身でありました。」とお念仏いただき、よろこばせていただく場にしていただきたいものです。



法話2
早いもので、得度(※僧侶になること)して、8年半が過ぎました。
私の場合は、僧侶養成の専門学校で学び、多くの方々の支えを頂き無事に卒業する事ができました。卒業後、平たく言えば最終試験とも言える得度習礼を受け、僧侶になるための儀式である得度式を迎える事になるのですが、その際は、髪の毛をツルツルに剃って、式に臨む事になります。
その後の私は、坊主頭にする事なく、髪を伸ばして生活しております。
でも、世間でのお坊さんのイメージは、髪の毛をツルツルに剃って、滝に打たれ修行をしている、でも、私のように髪の毛を伸ばしたお坊さんを見た時に、
「お坊さんなのに、髪の毛を伸ばしていていいの?」
そのような疑問を抱く方も多いのではないかと思うのです。
実際に、友人からそのように言われた事もあり、どうやら、お坊さんになるために、何らか修行をして、千日回峰行とまではいかなくても、何日間か断食して、どこかに籠って読経をしていたとか、そのようなイメージがあったようです。

「なぜ、浄土真宗のお坊さんは髪の毛を伸ばしていいのか?」
この問いかけに対する答えを探るためには、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の生き方を振り返らないといけません。
私達の浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、平安末期から鎌倉時代に生き抜かれた方です。その当時は、貴族にかわって武士が台頭し戦乱が続き、たびたび天災や飢饉にも襲われ騒然とした時代でした。
9歳で出家得度され、約20年間、比叡山延暦寺で厳しい修行に専念されました。比叡山での修行は、家族などの縁を断ち切り、俗世間の欲望を捨て、厳格な戒律を守る出家修行でした。そして、髪の毛は俗世間を象徴したものですから、その関係を断ち切るために、髪の毛を剃ることが必要でした。
また、戒律とは、仏教徒が守らないといけない規律のことです。例えば、生命のあるものを殺さない、与えられないものを自分のものにしない、嘘をつかないとかです。
しかし、いくら修行をしても戒律を守っても、煩悩という欲望が沸き起こってくる自分という姿に気づかれ、清らかな心を得る事もさとりに近づくことも出来きませんでした。
比叡山を下りる決心をされ、法然上人の弟子になられましたが、「ただ念仏して、阿弥陀様に救われていく」という法然上人の教えは弾圧され、法然上人も親鸞聖人も流罪に処され、僧籍というお坊さんの資格を奪われてしまったわけです。
流罪を機に、戒律を捨てて、恵信尼様と結婚されました。
当時、出家者である僧侶が結婚することは、固く禁じられておりました。しかし、公然と結婚し、子どもを授かり、家庭を持つ生活を歩まれ、社会とのつながりのなかで仏教を聞いていく、身をもって在家仏教の道を選ばれたのです。
親鸞聖人の言葉に「非僧非俗」という言葉があります。「僧侶ではない、しかし、俗世界の人間でもない」という意味です。
よって、「お坊さんなのに、髪の毛を伸ばしていていいの?」
この問いかけに対する答えは「戒律などを守ることができるお坊さんではないので、髪の毛を伸ばしても良い」という事になります。
さらに、浄土真宗のお坊さんは、日常生活での喜びや悲しみをご門徒さんと共にし、一緒にお念仏の道を歩んで行きましょう、共にお聴聞しましょうと、ご門徒の方々に仏法のお取り次ぎをすることが役割であり、ご門徒さんと立場は全く一緒です。つまり、髪の毛を伸ばしても良いという事になるのです。
浄土真宗は、在家のための仏教です。厳格な戒律はありませんが、戒律などを守ることができないあわれな私達を「まかせよ。必ず救う」と南無阿弥陀仏のお念仏となって、はたらきかけてくださっているのです。
とは言っても、戒律など守らなくていいのだと居直ることはいけません。
親鸞聖人が身をもってお示し下さったように、戒律など守ることができない、煩悩だらけで、自らの力でさとりに到ることができない、これが、私達の真実の姿であることに気づき、「おまかせします」と感謝のお念仏を申すことが大切なのです。


浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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