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法話

法話(オンライン法話のテキスト版です)

令和3年 12月 法話
法話1
今月は、「布施」ということについて話をさせていただきます。

 「布施」といえば、一般的には仏事の時に僧侶に差し上げるお金のことを言っているようです。お経料(お経代)と思っている人もいるようです。

しかし、「布施」とは、インドの言葉で「与える・施す」という意味の「ダーナ」を漢訳したもので、執着やむさぼる心を離れ、自分の持ちものを惜しみなく他人(僧侶・仏教教団・めぐまれない人たちなど)へ施し与えることをいいます。
菩薩行である六波羅密の第一に挙げられていて、利他の精神が説かれてあります。

仏教では、私たちの迷いを深める大きな要因の一つに貧欲(むさぼり)の心をあげています。
「欲に目がくらむ」という言葉もあります。
人生が順調にいかないと周りに当たり散らす私たちですが、少し順調にいきだすと、もっと・
もっとと、欲望をつのらせ、周りが見えなくなります。周りどころか、自分自身すら見えなくなり、自分の進む人生の方向すらわからなくなります。そこに、貧欲の心の恐ろしさがあります。その貧欲の心を離れるため、人や社会のために尽くす行いが「布施」です。

ですから「布施」を実践するとき、「誰が・誰に・何を」という執われがあれば、布施とは言いません。布施を実践する人が、与えたことに執われ、あの人にあれを与えてやったのにと、いつまでも、与えた人・ものにこだわっているようでは、「布施」にはなりません。
「誰が・誰に・何を」という執われないことが、「布施」を実践する上で、大切なことです。


○「布施」には、①真実の教え(仏さまの教え)を伝え広める「法施(ほうせ)」
        ②金銭や物品を施す「財施(ざいせ)」
        ③畏れを除き、安心を施す「無畏施(むいせ)」
  の「三施」があります。

身近な事で表しますと、「法施」とは、仏さまの教えを伝えるために僧侶がお経を読んだり、法話をしたりすることで、「法施」にたいして、阿弥陀様のお救いを喜び、感謝の気持ちを金品であらわして、お寺・僧侶に施すことが「財施」であり、「無畏施」とは、不安や畏れを抱いている人に対して、安心を施すことで、今でいうボランティア活動であります。

○また、たとえお金や物品などがなくても、だれにでも出来る「無財の七施」があります。

     ①眼   施(げんせ) … あたたかいまなざし
     ②和顔悦色施(わげんえつじきせ) … にこやかな表情
     ③言 辞 施(ごんじせ) … やさしい言葉
     ④身   施(しんせ) … 精一杯のおこない
     ⑤心   施(しんせ) … 慈しみ深いこころ
     ⑥床 座 施(しょうざせ) … 人にあたたかい席を
     ⑦房 舎 施(ぼうしゃせ) … 気持ちよく迎えるこころがけ

とあり、いつでも・どこでも・だれでも、自分のできる範囲で実践できるもので、思いやりのある生き方を示すものです。


 新型コロナウイルスが拡がりはじめた頃のことです。
親しくさせていただいていた方の家にうかがった時、私は不織布マスク・布マスクのゴムも手に入らず、申し訳ないなと思いながらもマスクをしてませんでした。
 すると、その方に「こんな時にマスクもしないなんて考えられん。」と言われ、事情を話すと、奥の部屋から不織布マスクの箱を10箱持って来られ、「自分はこれだけ持っているし、店で見かけたら買いだめするし、しばらくは大丈夫。」と言われ、ショックを受けました。

 数日後、別の方の家に用事があり、うかがった時、先にマスクをしてない事情を話ましたら、「うちには、もう1箱有るし、あなたの方が外に出て、人に会うことが多かろうけん、持っていかんね」と不織布マスクを1箱、くださいました。
 すごく自然な流れでくださる姿を通し、その方の思いやりに胸が熱くなりました。

 今年も、あと少しです。
 どのような時であっても、私たちは一人では生きていけないものです。一年間の自分の姿を見つめ直し、反省し、来年は自分のできる範囲で「慈しみのこころ」「支えあうこころ」「助け合うこころ」を実践し、思いやりのある日々を歩ませていきたいものであります。



法話2
今年も昨年に引き続き、新型コロナウイルスに翻弄された一年となりました。
そのような状況にあるなかで、私自身の今年一年を振り返りますと、何の目標もなく、ただダラダラと過ごし、面倒な事や苦手な事を後回しにしてしまい、期限が迫ってバタバタしてしまう、そのような一年間を過ごした気がします。
面倒な事などを後回しにして、「明日にでもやればいい」と思ってしまう。しかし、それは「明日も生きていて当然」と思っているからです。しかし、「明日も生きている」なんて保障はどこにもありません。

浄土真宗本願寺派のお作法として、おつとめの最後には、浄土真宗の八代目のご門主であります蓮如上人が書かれた「御文章」を拝読させて頂きます。
お通夜やご法事の際には、「御文章」の中でも有名な「白骨章」を拝読させて頂く事があります。その中の『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』という、人間の無常観を記された有名な一節に触れさせていただきながら、
「私達も、明日の事なんて分からない『無常』の命を歩んでおります。」
そのようなご法話をさせて頂く事があります。
「無常」とは、世の中の一切のものは常に変化していて、先には何が起こるかなんて分からないという、お釈迦様の教えのひとつです。

私達がお参りさせていただくご縁は、亡くなられたご門徒さんが作って下さったものであります。ご門徒さんは、大切な命と引き換えに命の無常を伝えて下さっているにもかかわらず、お衣を脱いだ私の日常生活を振り返ると、明日も生きていると思って、面倒くさい事などを後回しにしているのが現実であります。この無常について人様にお話しするのもおこがましい、そのように感じてしまいます。
蓮如上人は、
「仏法には、明日と申すことあるまじく候ふ。」と仰ったそうです。
「仏法においては、 無常である身だからこそ、明日があると思ってはいけない。 」という意味です。
無常の命を歩んでいる私達だからこそ、後回しにせず、今、仏法を聞かせていただく。
仏法とは今から約二千五百年前にお釈迦様が説かれた教えのことです。
お釈迦様が説かれた教えを実践し、自分中心の心を滅して、私達が悟りを開き仏となる教えであります。
しかし、私達は、そう簡単に自分中心の心を滅することはできません。自らの力によって迷いの世界を離れることができず、さとりの世界にも到ることができない凡夫であるのが私達の真実の姿です。自分中心の心を抱えたままで、仏の教えに導かれながら生きていく道があるという事を教えてくださったのが親鸞聖人であり、その教えが浄土真宗であります。

慌しく毎日を過ごしていくなかで、面倒な事などは後回しにしてしまう事は、仕方がない事かもしれません。気持ちに余裕がない時、物事が上手く進まない時には、「明日があるさ」なんて歌があるように、一度、気持ちをリセットして、明日から気持ちを切り替えてという事もあろうかと思います。
そのような日常を送るなかで、なかなか難しい事なのかも知れませんが、今、おはたらき下さっている阿弥陀様のみ教えを聞かせていただき、自分中心の心を滅することができない私達を、そのままの姿で必ず救うと南無阿弥陀仏のお念仏となって、至り届いて下さっている事に感謝し、お念仏を称えさせていただきたいものであります。

来年は、もしかしたらコロナ禍が収束しているかも知れません。
私自身も、何か目標を見つけ、新たな気持ちで一年を送ることができればと思います。



浄土真宗本願寺派
巍々山 光源寺

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